物語は始まらない
物語は始まらない。主人公となる人物が始めようとしなければ。
* * *
私は彼女のことをキシさんと呼んでいる。本名は知らない。いつもキシリトールのガムを買うから、私が勝手にそう呼んでいるだけだ。名前も知らない女性の買い物の内容を知ってるなんて、と引かないでいただきたい。これには正当な理由がある。
駅から歩いて10分。そこそこ大きな通りに面したコンビニエンスストアが私の職場だ。いや、職場なんて言い方はおこがましい。前の職場で首を切られてから、幾度となく転職活動に打ち込んだが成果は出なかった。また正社員としてまともな職に就くのには、どうやら私の年ではもう遅かった。そうしてどうしようもなくなって行き着いたのがここだ。ここは私のアルバイト先である。
シフトは夜の10時から翌朝6時までの深夜帯。フルタイムで入れば1人なら問題なく暮らしていける手取りだ。初めの頃は夜型の生活に体がついて行かなかったが、このアルバイトを始めてからもう半年。さすがに生活リズムも掴めたし、仕事にも慣れた。仕事に慣れてくると、いろんなものに目を向ける余裕が出てくる。よく売れる商品がなんなのかであったりとか、常連さんの顔であったりとか。キシさんは私が目を向けたそのうちの1人だ。
キシさんは、夜11時~12時に来店する。来店頻度はそれほど高くない。3日か4日に一回程度だ。それなのに彼女が印象に残った理由は、彼女の端麗な容姿にあるだろう。艶やかな黒髪に、少しつり上がった意志の強そうな瞳。赤い唇は夜だというのにいつも美しく濡れていた。会社の制服なのだろうタイトスカートから伸びた脚は非常に艶麗であった。彼女はいつもかかとの高い靴を履いていて、コツコツと小気味いい音をさせながら来店する。その音が聞こえると、私はつい作業を止めて入口の方に目を向けてしまうのだ。
今日もキシさんはいつもと同じように、かかとを鳴らしながらやってきた。相変わらず、綺麗な人だ。背筋がスッと伸びて、立ち姿さえ美しい。
キシさんはまず雑誌コーナーに向かって、棚に並んだファッション誌に目を向ける。めぼしいものがあれば手にとってしばらくそれを読むが、今日は特に興味が湧かなかったらしい。雑誌コーナーを抜けると、買うでもなくドリンクのコーナーを上から下まで眺めて、そのままぼんやりとチルド食品のコーナーへと向かう。チルド食品の中から惣菜のパックを1つ手にとったかと思うと、そのまま一度レジの横を通り過ぎて、お決まりのキシリトールガムを手にしてその上に乗せた。
コツコツと音を立ててレジにやってくると、惣菜とガムをレジに置く。
「いらっしゃいませ」
私は俯いたまま小さな声で呟いた。経験上、この時間に来店するお客様は大きな声で挨拶されるのを嫌がるとわかっての声量であるから、決してやる気がないわけではない。キシさんは特に返事をするでもなく、財布を取り出そうとカバンを探っている。その間に2つの商品をレジに通す。さっさと袋に詰めて、箸を一膳その上に置いた。
よく来ますよね。この辺に住んでいらっしゃるんですか? などと話しかけたりはしない。話しかけたところでどうなるというのか。嫌そうな顔をされるのが目に見えている。
「628円です」
そう告げると、彼女は鱗のような柄の長財布から千円札と小銭を取り出した。私はそれを受け取って、レジを打つ。
「400円のお返しです。ありがとうございました」
彼女は小銭を受け取ってから、差し出された袋に手を伸ばし、またコツコツとかかとを鳴らして店を出ようとする。そこで私はあるものに気がついた。
レジのカウンター。お客様側にある荷物置きに、キーケースが置いてある。見覚えがある、と思ったのは、キシさんがいつも財布を取り出すときに先にカバンから取り出すものだからだ。おそらくさっき財布を探すときにそこに置いたまま忘れてしまったのだろう。
車の鍵も付いている。数分のうちに彼女は自分で気付くだろう──が、これを私が届けたらどうだろう。ただの店員から、少しだけ親切な店員へ、彼女からの印象は変わるだろうか。それをきっかけに、彼女と目が合ったり、少しずつ彼女と話ができたりするだろうか。これはもしかしたら、このつまらない人生を少しだけ変えるチャンスなのではないだろうか。そうだとしたら、私は──。
「──すみません」
かけられた声に、彼女は振り返る。
「これ、忘れ物ですよ」
彼女はキーケースに気づいて、あっと声を上げた。
「やだ、ありがとうございます。全然気がつかなかったです」
「いえ、どういたしまして」
キシさんの花のような笑みに、キーケースを手渡したサラリーマン風の男は照れ笑いを浮かべた。にやけてしまうのも無理はない。彼女の笑みはとても美しかった。
彼女の後ろに並んでいた彼からは、忘れ去られていたキーケースはよく見えただろう。彼女は何度も男に頭を下げながら店を後にした。彼女を見送るのに夢中でレジに並び直すのを忘れていたその男は、しばらくしてようやく我に返ってレジに戻って来たのだった。
* * *
あれ以来、あのサラリーマン風の男は同じ時間によく来店するようになり、キシさんと会うと会釈をするようになった。そのうち会話を交わすようになり、たまにキシさんと一緒に来店するようにもなった。そこそこ顔の良い男だった。そうなったのも不思議ではない。
あの時、迷わずキーケースに手を伸ばしていればどうなっていたか。そんなことを考えても不毛である。キーケースなどあってもなくても、きっと変わらない。私はただの店員で、彼女に話しかけるつもりも最初からなかった。
私は恐れたのだ。彼女に話しかけることで、私自身の新しい物語を始めることを。
この物語は始まらない。主人公である私がそれを望んだ。キシさんはずっとキシさんのまま、夜のコンビニにふらりと現れては、2人ぶんの惣菜と、おなじみのキシリトールガムを買っていくのだ。
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