ピーターパン・シンドローム

「はぁ~。ねぇ少年、どうしたら私幸せになれると思う?」


 塾の帰り道、公園のベンチで一人うなだれるおねえさんに声をかけたのが失敗だった。大丈夫ですか、具合でも悪いんですか、と声をかけると、おねえさんは顔を上げた。その目は涙を溜めていて、それより前からずっと泣いていただろう顔は、化粧なんか取れてぐちゃぐちゃになっている。「大丈夫じゃない~~」とさらに泣き出したおねえさんの横には、缶ビールが数本。しまった、酔っ払いだった、と気がついた時にはもう遅かったのだ。それからしばらく、僕はおねえさんの隣に座らされ、愚痴やらなんやらを聞かされている。


「こんなことしてないでうちに帰ればいいと思う」

「冷たいよ少年~一緒に考えてよ~~」


 うわ、めんどくさい。おねえさんは初対面だというのに遠慮もなく僕の肩を掴み、ゆさゆさと揺さぶった。たぶん年なんか僕より一回り以上上だろうに、その態度はすごく子供じみている。こういう大人にはならないようにしよう、と決意する。おねえさんはもう泣き止んでいたけれど、やっぱり酔っているから会話はめちゃくちゃだ。


「じゃあさ、少年は、幸せってなんだと思う?」

「なにそれ、知らないし」

「そうだよね~子供だもんね~」


 話を振っておいて酷い話だ。子供扱いされるのはあまり好きじゃない。こう見えて僕は、クラスの奴らより落ち着いているし、背だって後ろから二番目なのだ。少なくとも、今こんな風に酔っ払っているおねえさんよりは、大人に振舞っているつもりだ。こうやって相手もしてあげているんだし。


「私はねぇ、幸せってのはねぇ、大好きな人と一緒に暮らして、キスして、セックスして、一緒の布団で寝ることだと思うなぁ」


 唐突に現れたその単語に、顔に熱がぶわりと集まった。どういう行為のことだかは知っているし、授業でも習ったし、みんながみんな興味津々だったけれど、僕たちにはまだ遠い単語だったのだ。それをこんなに近くに、生身の女の人の口から発せられて正直動揺する。それを悟られないように、さりげなく姿勢を正して横に置いていたカバンを抱えるように持った。でも、そんな僕の動揺なんかお見通しなようで、おねえさんはニヤニヤと僕に寄りかかる。おねえさんからお酒の匂いがして、僕は眉をしかめた。


「かーわいーなー、少年は」

「うっるさいな! だったら行けばいいじゃん、『大好きな人』のとこ」

「……」


 ちょっとした反抗のつもりだった。おねえさんは急に押し黙り、そしてまた顔をぐしゃりと歪めてポロポロと泣き出してしまった。ぎょっとした。


「それができたら苦労しないのよ……大人にはいろいろあるんだからぁっ……!」

「ちょ、ちょっと、泣かないでよ」


 おねえさんは泣き止まない。大人にはいろいろある、という。その『いろいろ』が僕には分からないから、その涙の止め方が分からない。自分はもっとずっと大人だと思っていた。でもきっと、『大人』はこんな時、スマートにこの涙を拭えるんだろう。僕が来る前から、おねえさんはここでずっと泣いていた。その涙も、その『いろいろ』が原因なのだろうか。

 おねえさんは、泣きながらビールの缶を一気に煽った。ぐいっと口元を拭うと、しゃくりあげながらポツリポツリと呟く。


「……キス、したい」

「!」

「ぎゅーってしたい。いっぱいしたい……」


 差し出しかけた手を引いた。その言葉は僕に向けての言葉ではないから、僕が大人ぶってそんなことをしたって、おねえさんを慰めることは出来ないと思った。

 僕は、早く大人になりたいと思っていたよ。大人はもっと自由で楽しいものだと思っていたよ。けど──


「涼子!」


 突如耳に届いた声に、僕もおねえさんも振り返った。息を切らして、迷わずこちらに向かってくるおにいさんは、おねえさんの知り合いであることは間違いなくて。あぁ、このおねえさん涼子っていうのかって、今更なことを知る。


「……貴明? なんで来るのよ……」

「なんでじゃないよ。迎えに来たんだよ。ほら、心配させないでよ。こんなに酒飲んで……」

「やだ……やだぁ! こないでよぉ、ばかぁ~!」

「もー、暴れないでさ……ほら、帰るよ」

「帰らないわよ、ばかぁ……」

「はいはい。馬鹿だよ」


 おにいさんは泣きじゃくるおねえさんの涙を親指でぐいと拭った。そして抵抗するおねえさんに肩を貸して、ふらつくおねえさんを支えて立ち上がる。


「君、ごめんね。彼女が迷惑かけて」

「あ……いや……」


 僕は何も言えなかった。僕のことを少年とは呼ばないおにいさん。当たり前に、彼女のことをおねえさんとは呼ばないおにいさん。彼のことを少年とは呼ばないおねえさん。彼女の名前を知ってなお、おねえさんとしか呼べない僕。

 おにいさんはいとも簡単におねえさんの涙を止めた。この人たちの間にどんな『いろいろ』があったのかは知らないけれど、おねえさんに涙を流させるのも、涙を止めるのも、このおにいさんだけなんだろう。おねえさんがキスやその先を望むのも。


「彼女は僕が連れて帰るから。君も夜遅いから気をつけて帰るんだよ」

「……はい」


 二人の背中を見送っていると、おねえさんがこちらを見て手を振った。


「またね、少年!」


 あぁそういえば、最後まで名前を名乗らなかった。でもたぶん、名乗ったところで変わらない。

 早く大人になりたいと思っていた。何をするにも自由で、楽しくて、スマートにこなせる。大人ってそんな存在だと。

 あの二人はきっと、一緒に暮らす家へと帰って、お酒の味のキスをするんだろう。そして同じ布団で朝を迎える。それが幸せなのだとおねえさんは言っていた。僕はおねえさんが置き去りにしていった空のビール缶を眺めて、口の部分だけペロリと舐めた。


「……にが……」


 この味のキスが大人の幸せなんだとしたら、僕はまだ子供でいい。モヤモヤをごまかすようにゴミ箱に投げた空き缶は、中には入らず縁に当たって落ちて、地面にコロコロと転がった。

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