Retributive justice
変な時に変なことって思い出すものですねぇ。
いやね、わたし、人を殺したことがあるんです。と言っても、直接ではないですよ。
あれは、わたしが中学三年生のころの冬でした。受験真っ只中で、その日も雪が降っていたんです。
わたしはその日、第一志望の高校の受験だったのに、前日追い込みのために夜遅くまで勉強して、寝坊してしまったんですよ。うふふ、馬鹿ですよねぇ。それで、急いで会場の高校まで向かっていたんです。
ひとけのない十字路でした。前から向かってくる1人の妊婦さんがいたんです。大きなお腹だったから、もうすぐ生まれる予定だったんでしょうね。まぁわたしはまじまじと妊婦さんを見ている余裕はなかったので、急いで十字路を抜けて、その妊婦さんとすれ違いました。
その数秒後でしたね。猛スピードで車が十字路を横切ったのは。大きな衝突音がして、わたしは思わず振り返りました。雪で滑ったからブレーキが利かなかったのか、車は止まる気配なく逃げていき、そこにいるのは血を流して倒れている妊婦さん。血はどくどくと溢れてきます。妊婦さんは朦朧とした意識の中で、わたしを視線の中にとらえました。
「た……すけ、て、」
掠れた声で言われ、ぞくりとしました。でもわたし、当時携帯も持っていなかったし、近くに民家もない。公衆電話はここに来るまでの道で見かけたけど、そこに行くまではだいぶ時間がかかりました。そう、今わたしには、時間がないのです。
本当に行きたかった高校でした。ここを受験するために、いろいろなものを犠牲にしてここまで来たのです。
その時、わたしの中の悪魔が囁きました。
──逃げちゃえよ、と。
この人は他人で、行きずりで。その人のために時間を割いて、わたしの人生を棒に振っていいのか? と。そうだ、わたしは関係ない。もともとは、逃げてしまったあの車が悪いのだ。今わたしが何もしなかったからって、何か罪になる?
そう思ったわたしは、その妊婦さんに背を向けて駆け出しました。何か背中越しに言っているのが聞こえたけど、消え入りそうな妊婦さんの声は、よく聞き取れませんでした。
急いだおかげか受験にはギリギリ間に合って、試験も無事に終わりました。結果は合格。わたしは念願だった高校の制服を着ることになったのです。
後日、地方紙の端に、あの妊婦さんの記事があったのを見つけました。わたしじゃない誰かが救急車を呼んでくれたのでしょう。妊婦さんは駆けつけた救急隊員によって病院に運ばれたそうですが、その後病院で亡くなった、とありました。わたしは怖くなって、読むのを途中でやめました。わたしが救急車を呼んでいれば、この人は助かったかもしれない──そんなことが頭をよぎったけれど、わたしはブンブンと首を振りました。
忘れよう、悪い夢だったのだ。徹夜明けの鈍った頭が見せた幻だったのだ──そう自分に言い聞かせました。
そうやって、そう言い聞かせているうちに本当に忘れてしまうなんて、人間の頭ってふしぎですねぇ。
夢だった高校に通い、その後大学を出て就職。職場恋愛の末に寿退社。なんてことはないけれど、幸せな生活を送り、やがて子供も授かりました。どんどん大きくなるお腹が愛しくて、毎日が楽しくて仕方がなかった。大変なことが多いけど、世界が明るく見えるんですね、子供をもつと。
今日も検診の帰り、いろんなものに目を向けました。公園で遊ぶ親子のグループを見て、あの輪の中に入れるかしらとわくわくしたり、タンポポの綿毛を見て、まだ見ぬ我が子がそれを吹いているのを想像したり。
すると、道の向こうに中学生の女の子が見えて、この子も将来あんな風に制服を着るのねなんて、まだ先のことを考えたその時でした。一瞬何が起きたのかわからないくらいの衝撃。わたしは前のめりに倒れこみ、とっさにお腹を守ったことで頭を強く打ちつけました。あぁ、車に轢かれたのだと、後から気づきました。
逃げていく車のナンバーは、霞む視界には映りませんでした。どくどくと血が流れる感覚だけがやけにリアルで。
死にたくない、と思ったんです。わたしは無我夢中で、道の向こうにいた女の子に助けを求めました。女の子は、わたしのそばにやってきてくれました。助かった、と、そう思いました。
彼女はわたしの顔を覗き込みます。しばらく覗き込んでから、わたしから離れて行きました。きっと、助けを呼びに行ってくれたんだと思いました。
けれども、その女の子も、他の人も、いつまでたっても来てくれません。はやく、はやく、と焦る気持ちとリンクして、血はどんどん溢れてきます。
走馬灯ってあるのですね。いろいろなことを思い出しています。こんな時に思い出したくないことまで、全部。
ああ、だんだん、言葉がまとまらなくなってきました。力がはいりません。
変な時に変なことって思い出すものですねぇ。あの妊婦さんのことなんてすっかり忘れていたのに。
あのとき、わたしが怖いからと読まなかったあの妊婦さんの記事には、なんて書いてあったのでしょう。
あのできごとは今から約15年前──もしあのときのお子さんが生きていれば、ちょうどさっきの女の子くらいのとしだと、
わたし きづいて しま った──
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