真夜中の間違い電話

「あぁ、孝之さん? よかった、ようやく繋がった」


 ここ最近、僕はうまく眠れなくて。ようやくうとうとしてきたときにかかってきたその電話に、「番号間違えてますよ」と優しく言う気にもならなければ、「こんな夜中に間違えてんじゃねぇよ」と怒鳴る気にもならなかった。


「ずっと連絡がとれなかったから、心配していたんですよ。よかった、繋がって」


 女の人の声だった。若くはなさそうだけど、そこまでヨボヨボなしわがれた声でもない。でも、優しい声だな、とは思った。

 その人は、しきりによかった、よかったと繰り返した。僕は何も言わず、早く切ってくれないかなと思っていた。


「わたしね、あなたに話したいことがたくさんあったんですよ」


 嬉しそうな声の後、彼女は話し始めた。話したいことがたくさんあった、というわりに、その内容は実にとりとめのない話だった。


 最近寒くなりましたね。庭の木に霜が降りていました。


 今日は空が澄んでいましたよ。ご覧になりましたか。


 今日の夕飯はシチューでした。孝之さんはお嫌いでしたね。


 繋がっているようで全く脈絡のない話を、彼女はすごく楽しそうに語った。その話を聞いているうちに、僕はだんだん眠くなってしまって、携帯を片手に眠ってしまっていた。気づけばもう朝で、僕は久々にぐっすり眠ったことに驚いたのだった。電話もいつの間にか切れていたようで、真夜中の着信履歴だけが僕の携帯に残っていた。



 * * *



 そんなことがあったことなんて忘れかけていた頃、またその電話はかかってきた。最初に電話が来た日からちょうど一週間。時間も大体同じくらいの時に、またかかってきた。

 案の定、僕はうとうとしていたから、話半分にその電話を聞いていた。


 孝之さん、お風邪は引いていませんか。最近本当に寒くなりましたから。


 今日は雨が降りましたね。お庭の植物たちも嬉しかったでしょうね。


 今日の夕飯は鯖の味噌煮でした。孝之さん、お好きでしたでしょう? 


 孝之さんって、誰なんだろう。息子かな。それにしてもまぁ同じようなことを話すもんだな。そんなことを思いながらも、僕はその声がすごく心地よくて、また眠った。

 その次の週も、次の週も電話はかかってきた。話す内容は似たような内容だったけど、それでも彼女は嬉しそうに、楽しそうに話すもんだから、僕は静かにそれを聞いていた。いつしか僕は、その電話を楽しみに思うようになっていたのだ。



 * * *



 孝之さんとは誰なんだろう。そもそも、彼女はいったい何者だ? たまった着信履歴を眺めながら、僕はぼんやり思う。……市外局番はこの辺のだし、頑張れば探せるんじゃないだろうか。そう、彼女からの電話は全て同じ固定電話からかかってきていたのだ。

 取り敢えず、この番号をネットで検索してみようか。そう思い立った僕は、彼女の電話番号を、検索してみた。意外にも、それはあっさり見つかった。


「……老人ホーム……?」


 表示されたページは、見たことのないような老人ホームのページだった。

連絡先として、見慣れた番号が記載されている。

 気になった。そんなところから、どうして僕に電話が? 

 僕はその老人ホームの地図を確認する。行けない距離じゃない。僕はその地図を印刷して、家を出た。



 * * *



 その老人ホームを前にして、僕はハッとした。来てみたはいいものの、何て言って入るんだ。そもそも僕は、彼女の名前すら知らないのに。自分の計画性のなさにうんざりしていると、ちょうどホームの玄関が開いた。若い女の人と目が合う。


「……面会ですか? どなたかのお孫さん?」

「いや、あの、僕は」


 どうやら、この人は従業員らしい。胸に大きな文字で「なかむら」と書かれている。僕は狼狽える。

 何て言えばいいのだろう。でも、他に言いようがない。だから僕は、ここから毎週真夜中に電話がかかってくること、その人を一目見たいことを話した。

 真夜中の電話、という言葉でなかむらさんはハッとした。心当たりがあるようなしぐさだった。なかむらさんは少し考えた後、小さく「ごめんなさい」と言ったのだった。僕は何が「ごめんなさい」なのか分からなくて、首をかしげる。


「原田さんだわ。ごめんなさい、誰かに繋がっていたなんて思わなかったから」

「原田さん……」


 電話の相手は、どうやら原田さんというらしい。詳しく聞こうとすると、なかむらさんはくるりと僕に背を向けた。


「原田さんなら、今は庭にいると思う。案内します。電話のことは、歩きながら説明するわね」

「はぁ……」


 僕はなかむらさんに言われるがまま、その老人ホームに足を踏み入れたのだった。当たり前だけど、そこにはたくさんのおじいさんおばあさんがいて、各々お喋りをしたり将棋をしたりで時間を潰している。たまに、車椅子のおじいさんおばあさんをつれた従業員とすれ違って、ペコリとお辞儀をされた。

 事務所らしき扉の前を通り掛かったとき、古めかしい固定電話を見つけた。僕の視線に気づいたのか、なかむらさんは言う。


「小さな老人ホームでしょう。だから電話も一つしかなくて、従業員もホームの皆さんもこれを使うの」

「はぁ……」

「だからね、原田さんが電話を使っているのは知っていたのだけど、彼女には電話する相手もいないから、かけたふりをしているもんだと思っていて……だから、ごめんなさいね」


 僕は、なかむらさんの言葉に違和感を覚えた。“電話する相手もいない”? 


「電話する相手もいないって、どういうことですか?」


 なかむらさんは少し黙った後、声を小さくして僕に言った。


「ここだけの話、彼女のお子さんたち、介護が嫌だからってここへ彼女を預けたの。見舞いにも来ないわ。だから、」

「でも彼女は、“孝之さん”に一生懸命語りかけていました」


 僕の言葉に、なかむらさんは目を丸くした。そして難しい顔をした後、「そう……」とだけ呟いて黙ってしまった。この反応は、いったい何だろう。

 庭へと通じる扉をなかむらさんが開いて、僕はその後に続いた。その庭は、手入れが行き届いていて綺麗なものだった。今は冬だから少し寂しげではあるものの、力強く木々は空へ伸びているし、花壇にもいくつかの植物が植えられている。僕は、きっと春になったらずっと綺麗だろうなと思った。


「あのベンチに座っているのが原田さん──原田千代さん」


 なかむらさんは、ベンチを指差す。丸まった小さな背中が見えた。その背中は、ぼんやり空を見つめている。寒くはないのだろうか。

 僕がどうしようか考えていると、なかむらさんは小さな声で語り出した。


「……孝之さんというのは、彼女の旦那さんなの。二人でここへ入られて、いつも二人でいらっしゃったわ。ちょっと有名だったくらい、おしどり夫婦って。


あのベンチに二人で座ってね、お喋り好きな千代さんがずうっと喋って、無口だった孝之さんは、ずうっとそれをうん、うんって聞いていたのよ。


私はその姿がとても好きだった。二人とも、すごく素敵な顔をしていたから。


……でも、この春に、孝之さんは亡くなったの。私たちは、頑張って彼女を励まそうとしたのよ。話し相手にもなろうとした。でも、やっぱり孝之さんじゃないとダメだったのね。彼女はあんまり喋らなくなってしまったの。そのうち、痴呆も始まってしまって……。


だからね、真夜中の電話も、彼女が満足しているのであれば、それでいいと思っていたの。彼女があんなに楽しそうに話すのは久々だったから。だから、あなたには本当にすまないことをしたと思うわ、ごめんなさい」


 なかむらさんは、苦しそうに、頭を下げた。そうするしかなかったのだろう。自分たちで彼女を救えなかったのは、なかむらさんだって悲しいはずなのに。


「原田さんに言って、電話も止めさせるわね。あなたに繋がっていたとわかった以上、あなたに迷惑かけるわけにはいかないもの」

「……いえ、いいんです」


 なかむらさんは、驚いたような顔をして僕を見た。僕は、あの小さく丸まった背中を見つめながら、なかむらさんに言う。


「僕は、彼女からの電話が好きなんです。何でかはわからないけれど。それに、彼女はきっと、まだ孝之さんに話したいことがたくさんあるだろうし」

「……ありがとう」


 なかむらさんは、悲しげに笑った。


「……孝之さんは、幸せ者ですね」


 僕が小さく呟くと、なかむらさんは懐かしそうに目を細めて、呟いたのだった。


「私も、そう思うわ」



 * * *



 あの老人ホームを訪ねてから、何度か彼女からの電話は来ていたけど、ある日パタリと来なくなった。僕の携帯は真夜中に震えることもなくなり、暗い室内で佇むだけだ。

 そういうこと、なんだと思う。寂しいとかそういう感情はわかなかったけど、もうあの声が、あの話が聞けないと思うとやはり少し残念だった。あの声のお陰で眠れていたこともあり、また少し不眠ぎみになっていたし。

 だけど最近──満開の花が咲くあの庭のベンチに、二人の老人が座っている夢を見た。向こうでも、きっと彼女はあの調子なんだろうなと思うと少し可笑しかった。

 その日はぐっすり眠ることが出来て、起きたらもう昼だった。いつか話に聞いたような澄んだ青空が、窓の外に広がっていた。

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