捨てられ犬

 人間が嫌いだ。身勝手で、強欲で、最悪な生き物だ。そんなひどい人間のせいで、ボクはこんな生活をしている。



 * * *



 四角く切り取られた青い空。今にも死んでしまいそうなママ。ボクの一番最初の記憶だ。そう、ボクは段ボールの中にいた。幼いボクは、まだそれが人間のせいだなんて知らなかったし、今はとにかく、ママを助けなきゃと思った。


『ママ! ママ!』


 ボクがワンワンと大きな声を出すと、ママは苦しそうな顔をした。ママは痩せ細っていて、毛並みはかぴかぴで、ひどく汚れていた。


『坊や……。ママは先に逝くから──』

『え? ママ……? ママぁっ! 』


“先にいく”って、どこに行くの? 

 尋ねる前に、ママの荒い息は途切れた。


──幼いボクは、まだそれが人間のせいだなんて、知らなかった。

 ママはいなくなっちゃんだ。ボクのママ。大切なママ。ボクの頭は真っ白になった。泣くことすらできず、ボクはただママの体にひたすら擦り寄った。



 * * *



 ボクとママは、『ニンゲン』に捨てられたらしい。物知りな野良猫が教えてくれた。


『ニンゲンって?』

『ああ、あれサ。あのでけぇ奴らサ』


 野良猫は前足で奴らを指した。大きくて、二本足で歩くそいつらは、皆怖い顔をしていた。


『あいつらが……ボクらを……』

『そうサ。んまぁ、オレも同じような身サ、困ったときはお互い様だぜ、犬っころ!』


 そう言うと、猫は長いしっぽをピンと立てて、走り去った。ボクは、しばらく猫の様子を眺めた後、『人間』を睨み付けて、歩きだした。

 お腹減ったなぁ。そういえば、何も食べてないや。最初は真っ白だったボクの体は、汚れて茶色になっていた。小さなボクには、世界は大きすぎて、生きるすべさえも分からなかった。

 だから、ボクはちょこっとだけ貰おうと思ったんだ。おいしそうなお肉がたくさん並んでいたから、一つくらいはいいと思ったんだ。人間は、ぼくの姿を見るなり、顔を歪ませた。


「こらっ! 商品に手を出すんじゃねぇ! クソ犬!」

『!?』


 人間は、近寄っただけのボクに長い棒を振り回してきた。ボクはびっくりして動けずにいた。それでも人間はボクに近づいてきて、棒が当たりそうになった。怖い。怖いよ。ボクは逃げることしか出来なかった。

 どうしてなんだろう。ボクは、お腹が減っただけなのに。何だか目がじんわりしてきて、前がよく見えなかった。



 * * *



 ボクが捨てられていた公園は、人間が少ない。それが少し嬉しかった。ボクは木陰に身を潜め、雨風をしのいだ。時には生ゴミを漁った。肉が少しだけついた骨を見つけた日は、三日くらいそれをしゃぶっていた。生きるために必死なボクに、やっぱり人間は冷たかった。汚れたボクの体を、まるでゴミでも見るように眺めた。

 たまに、小さな人間がボクに寄ってくる。でも大きな人間がそれを制して、そそくさと歩いていく。


「あんなの触っちゃダメ。変な菌でも持ってたらどうするの?」


 大きな人間は、そう言っていた。


──ボクは菌なんか持っちゃいないよ。

 汚いのはそっちだ。ボクは、生きてるだけなのに。悲しくなって、ボクはもう味がしなくなった骨を蹴る。ポテ、と小さな音を立てて、地面に落ちた。

 お腹が減っても食べるものはないから、水をたくさん飲んだ。空腹は満たされるけど、心はどんどんすり減った。



 * * *



 そんな日が続いた、ある夜。寒い日だった。乾いた風が、ボクに向かって吹く。毛があっても、何だかとても寒くて、ボクは木陰で小さく震えていた。


『──……ママ。ママぁ……』


 こんな時、ママがいたら寒くなかったのかな? ママがボクを温めてくれたのかな? 辛くても頑張ろうって思えたのかな? また目がじんわりしてきた。寒くてご飯も探せてないから、お腹はカラッポだ。

 震えが大きくなってきた。寒い。寒いよ……。風が木を揺らして、ざわざわと音が鳴る。その音が遠くに聞こえた。ボク、耳もおかしくなっちゃったのかな? 何も食べてないからかなぁ……? 

 夜の光は綺麗で。この汚れた世界で、唯一好きだった。


“死んじゃった奴は皆、天国に行くのサ。天国で、あの光になるのサ”


 野良猫が、前に教えてくれたっけ。ママは、あの光になったんだって。


『ママ……ボク……』


 もう疲れちゃったよ。ボクも、あの光になれるよね? 精一杯頑張って生きたもんね……? 

 だんだん力も入らなくなって、星も見えなくなる。光が、消えてしまった。ふわりと浮かぶ体。ああ、ボクは空に行けるみたいだ。ママ、今行くから。何だか、あったかくて、幸せだなぁ。初めて、ぬくもりを感じたよ──



 * * *



──あ、れ。

 ボクが目を開けて、見たものは、思っていたのと違うものだった。会えるはずのママの姿はなく、見えるのはピンクのふかふかした毛布。


──ボク、生きてる……? 

 茫然としていると、そっと背中にぬくもりを感じた。びっくりして見てみると、静かに笑う人間がいた。人間──!!

 ボクは我を忘れて威嚇した。声を張り上げた。だけどその人間は、悲しそうな顔をするだけだった。ボクの体をひょいと持ち上げ、優しく抱きしめる。そのぬくもりは、あの時感じたものと同じだった。


「そうだよね。辛かったよね。私たち人間の勝手で、あんな生活。でも、もう大丈夫だからね。もう大丈夫だから……」


 その人間は、小さな小さな声で、呟いた。呪文みたいに、大丈夫って繰り返していた。なぜだか分からないけど、その声を聞いていたら、また目がじんわりしてきて、その人間の顔もぼやけてしまった。体に伝わるぬくもりで、ボクは安心したんだと思う。その人の手のぬくもりで、ボクの心も温まったんだと思う。


「今牛乳温めてるから、待っててね。飲み終わったら、お風呂に入ろうね」


 その人は小さく笑う。僕の尻尾はなんだか自然と、パタパタとゆれた。



 * * *



 ママに会うことは出来なかったけど、この人に会うことは出来た。天国には行けなかったけど、天国と同じくらい素敵な場所にたどり着いた。ボクは、この人の笑顔を見て、初めて生きててよかったと思ったんだ。


──ボクはほんのちょこっとだけ、本当にちょっとだけ、人間のコトが好きになった。

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