ふたりぼっちと夕日の話
夕日が綺麗だ。
青からオレンジになるグラデーションを見ながら、そんなことを思った。そんなことを考えて、私にもまだ景色を綺麗だと思える気持ちがあることに感動した。
心が動かされるというのは、こういうことなのだろう。家のベランダから、しばらく闇が光を食むのを身じろぎせず眺めていると、この景色を誰かと共有したくなった。
──誰か、なんて。
私は自嘲気味に笑った。誰もいないのだ。この家にも、どこにも。友人と呼べるような存在も。ここにいるのは、私だけ。私と、あとは、親が遺していった、少し型の古い──。
「そんなところにいたら、風邪をひいてしまわれます」
「!!」
噂をすれば、なんとやら。いつの間にか背後に立っていたそれに気づかなかったのは、静かすぎるモーター音のせいだろう。それは私と目が合うともう一度念を押すように、「そんなところにいたら、風邪をひいてしまわれます」と言った。
ここにいるのは、私と、あと。親が遺していった、少し型の古い世話役アンドロイドのディックだけなのだ。いつか聞いた最新のアンドロイドには、感情があって、ご主人の感情に合わせてそれを自在に操ったと聞いた。でもディックには感情がない。私の感情を読み取る機能もないから、時折とても空気が読めないことを言ったりやったりする。今だってそうだ。人がせっかく、心の動きをかみしめていたというのに。
「風邪なんか、今はいいの」
「ですが、ここにおられては」
「だから、いいんだってば!」
少し苛立って声を荒げてしまう。でもディックは私の苛立ちなんて気づいていなくて、キュルキュルと中の機械の音をさせていた。
「でしたら、お召し物をとってまいります」
「だから、いいから!」
くるりと踵を返そうとするディックの腕を掴んで、こちらに引き寄せた。私の隣に彼を移動させ、目の前に広がる夕日を見せる。
──誰でもいい、誰かと。
「服はいいから、あれを見てよ」
「はい」
「……夕日よ」
「はい。存じております」
「……綺麗でしょう?」
私の言葉に、ディックはしばし黙り込んだ。私はてっきり「はい、そうですね」と返ってくるもんだとばかり思っていたから、その反応に疑問符を浮かべる。
「夕日とは、綺麗なものなのですか?」
「え?」
質問を質問で返されて面食らった。綺麗なものなのか、と聞かれても、いつもいつも夕日を眺めているわけではないし、今日はたまたま見た夕日が、とても綺麗に思えただけで。自分でも、何かを綺麗と思える心があったことに驚いたくらいだったのに。答えられないでいると、ディックはさらに言葉をつなげた。
「私には、心がありませんので。何かを綺麗とか美しいとか思うこともないのです」
「……あ」
そうか。ディックには感情が、心がないから。何かに心を動かされることも、ないんだ。誰かとこれを共有したいと思うばかりに、ディックに嫌なことを言わせてしまった。きっと彼は傷つくということもないんだけど、彼が傷つかないのと、私が罪悪感を覚えるのとは、また別なことだ。
せっかく何かを綺麗だと思える心に気づけたのに、なんだかいやなもやもやが胸の中に広がっていく。
「でも」
「……?」
「お嬢様が綺麗だと思うのなら、綺麗なのでしょう。夕日は綺麗だというデータを、上書きしておきましょう」
「──っ!」
ディックはいつもそうだ。ないはずの心が、私の心を温める。心無いはずの言葉が、こんなにも胸に響くのだ。
「さっきの質問だけど」
「はい」
「普通の時もあるし、綺麗な時もあるの」
「はい」
ディックは一言一言、ご主人の私の言葉を聞き逃さないように聞いている。
「だからね、ディック」
「はい」
「私がまた夕日を綺麗だと思えたその時はね」
「はい」
彼は私のお世話役だから、私の命令は絶対。だから、こんな言い方は、少しずるいのかもしれないけど。
「隣にいて、一緒に“綺麗だね”って言って欲しい」
「はい、了解しました」
この世界でひとりぼっちになってしまった時、もう絶望しか味わえないと思った。親が遺したディックを見つけて、そのスイッチを入れた時、私たちはふたりぼっちになったのだ。そして、冷え切った心はゆっくり溶けていって、また何かに心を動かす。嘘でも、その気持ちを共有できるなら。きっと私は、もっとこの世界を綺麗だと思えるのだろう。
「さぁ、風邪をひいてしまわれます。中に入りましょう」
「うん」
ディックに言われて、家の中へ入る。その時ちらりと夕日を見たけれど、もう空からオレンジは消えていた。
ふたりぼっちのこの世界に、もう夜が来ていた。
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