魔法のクレヨン
幼い頃、私は魔法のクレヨンを持っていた。欲しいものをそのクレヨンで描いて、夜中に枕元に置いておくと、いつのまにか、絵が描いたものに変身しているのだ。
* * *
とある絵本に載っていた、「描いたものが手に入る魔法のクレヨン」。幼い私はそれが欲しくてたまらなくて、仕事から帰ってくる父にしきりに「魔法のクレヨンが欲しい」とねだった。父は困ったような笑みを浮かべては、私の頭をそっと撫でた。
そんなある日。父が仕事帰りに真新しいクレヨンを持ってきて、私に言った。
「魔法のクレヨンだよ」
父はそう言うが、見るからにそれは普通のクレヨンだ。私は訝しげに父を見上げた。父は私にクレヨンを手渡しながら、
「試しに、欲しいものを描いてみなさい。明日になればわかるだろうから」
私は納得いかなかったが、それを受け取り、落書き帳を引っ張りだして、欲しいものを描いた。魔法のクレヨンを使うのは、1日一回だけ。欲張りをするといけないことは、絵本から学んでいた。
私は、当時すごく欲しかった、お姫さまみたいなネックレスを描いた。真ん中に大きくて綺麗なピンクの宝石がついたネックレスだ。
──魔法のクレヨンだよ。
真偽のほどは疑わしかったが、やはり幼い私は期待を隠せなかった。描いた絵を両親に見せることなく、私は急いで布団に潜った。
* * *
次の日、幼稚園から帰ってきた私は歓喜の声を上げた。
「うわぁっ……!」
部屋にあったのは、まさに私が思い描いたネックレスだった。
──やっぱりこれは本物の魔法のクレヨンだったんだ!
「ママ! 見て!」
叫ぶ私に、母は優しく笑った。
──本物の魔法のクレヨンを持ってくるなんて。
パパは、魔法使いだ。その時、素直にそう思った。
* * *
それから、私は欲しいものがあると魔法のクレヨンで絵を描いた。あまり頻繁に使うのはもったいなくて、少しずつ使った。新しい髪止め、お花の形のポーチ、くまのぬいぐるみ──友達が持っていたものを真似て、一生懸命絵を描いた。もちろんそれらは全部実物に変わっていて、私の心は踊った。
──が、そんな楽しい日々はそう長くは続かなかった。
「……パパが、帰る途中にっ……車に……ぶつかったって……!」
突如鳴り響いた電話を切った母が、青い顔で言った。パジャマの上から上着を着せられ、わけもわからぬまま病院に連れていかれた。病院に着いたら──父はもう息をしていなかった。
「パパ? パパ、起きて、パパ……?」
父の手は冷たくて、いつもの優しい父の手じゃなかった。その時、わかってしまった。
──パパは、もう帰ってこない。
私がしばらく父を呼んでいると、看護師さんの啜り泣く声が、小さく響いた。耐え切れなくなったのだろう。
「……最善を、尽くしたのですが」
「はい……わかっています……」
母は泣きながら小さく言った。私は母の手を握りながら、俯いていた。
しばらくして、母方の祖母が私を迎えに来た。今日はママは帰れないから、おばあちゃんとお留守番ね。赤い目で母は無理して笑った。
──パパはどうなっちゃうの。
思ったけど、聞けなかった。怖くて、聞けなかった。
* * *
父も母もいない、祖母と私だけの家はやけに寒くて、静かだったのを覚えている。
今日は疲れたね。ゆっくりお休み。
祖母は私に言うと、そっと布団を掛けた。上から2、3度優しく叩くと、居間に戻っていった。声が聞こえる。電話をしているようだった。
私は、どうしても眠ることが出来なかった。布団に入って暖かいはずなのに、父に触れた手がどんどん冷たくなっていくようだった。
──あの優しいパパの笑顔は、手は、ぬくもりは、どこに行ったの。
──パパに会いたい。
──パパ。パパ。パパ。パパ。パパ。
考えて、気付く。私には魔法のクレヨンがあるじゃないか。
私は引き出しから魔法のクレヨンと落書き帳を取り出して、急いで父の顔を描いた。優しい笑顔を思い浮べると、涙が溢れた。
──パパ。パパ。パパ。
──戻ってきて。
──明日の朝には、また優しく笑って。
肌色のクレヨンがどんどん小さくなった。大好きなパパ。下手くそだけど、精一杯描いた。私は描きおわると、力尽きたように眠ってしまっていた。
翌朝、絵はなくなってなかった。
父もいない。母もまだ帰ってきていないようだった。
「……なんでぇ……? なんでパパいないの……?」
魔法が、使えなくなった。急に、魔法のクレヨンは普通のクレヨンになってしまった。
「嘘つき……! 嘘つきぃ……!」
欲しいものが手に入るなんて嘘。一番欲しいものが、手に入らない──。私はクレヨンを壁に放り投げ、父の絵をぐちゃぐちゃにして捨ててしまった。泣きじゃくる私に気付いて、祖母が慌てて私を抱きしめてくれた。
* * *
あれから、何年が経っただろう。
久々に実家に帰った私は、荷物を段ボールにまとめていた。祖母の介護のために昔からすんでいたマンションを出て、祖母の家で暮らし始める母の引っ越しの手伝いのためである。本棚の中のものを詰めているとき、見覚えのないファイルに手を止めた。
──……?
何気なくページをめくる。その瞬間、息が止まりそうになった。
ピンクの宝石の、下手くそなネックレス。丁寧にファイルされたそれには、父の筆跡でコメントが付け加えられていた。
『19XX年、11月2日。
魔法のクレヨンを手にして、大喜び。
絵美の記念すべき一作目。
何を欲しがるかと思えば、コンビニに売っていたお菓子のおまけ。
思わず笑った。』
『19XX年、11月15日。
絵美の二作目。
最近髪型を気にしていたのはこのためか。』
『19XX年、11月27日。
絵美の三作目。
幼稚園の友達が似たようなものを持っていたらしい。
そろそろ描くだろうとは思っていたが、大当たり。』
事細かに、父のコメントは記入されていた。時折、私の絵を絶賛していたり、将来は天才画家だと持て囃していたり。
薄々感付いていたが、当時魔法だと思っていたそれは、やはり父の仕業だったのだ。子供の夢を尊重するために、こっそり現物を置いて。魔法なんかないってことには、気付いていたけれど。しかし、こんなふうに、丁寧に──わざわざコメントまでつけて、全部をとっておいているなんて……。
最後のページを見る。ぐちゃぐちゃに丸めた紙を引き伸ばした、父の似顔絵。
──あぁ、これは、母の仕業だ。
涙の跡がある。ゴミ箱に捨てたこれに気付いて、ひっそり涙した母の涙だ。
「……バカみたい」
こんなに、うちの両親が親バカだったなんてね。頭では鼻で笑ったけれど。
「……っく。ほん、とに。バカ……。バカじゃないの……」
涙が、溢れた。父の笑顔を、思い出した。母の涙を、思い出した。三人の幸せな日々を、思い出した──。
私はファイルをぎゅっと抱きしめて、ただただ泣いた。
* * *
魔法のクレヨンは、子供騙しの偽物だった。魔法使いだと思った父は、普通の人間だった。子供を愛する、普通の人間だった。
あのクレヨンは、まだ残っているだろうか。残っているならあのクレヨンで、ただ一言、こう書きたい。天国の父に届くように、「ありがとう」と。
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