おふくろの味

 俺のおふくろは、昔から料理を全然しない人だった。いつもへらへら笑っていて、適当な人だった。夕飯は常に外食かコンビニ弁当かそれ以外の弁当屋。高校の頃の毎日の弁当は全部が冷凍食品だった。別に食にこだわってるわけじゃなかったから、食えれば何でもよかったんだけど、ちょっと淋しいかもしれない。だって、俺の舌が覚えてるおふくろの味は、コンビニ弁当の味だから。同僚が、「実家帰るとつい食べ過ぎちゃうよな。母ちゃんの飯うますぎてよ」なんて言っていた。俺には、その気持ちがよくわからなかった。



 * * *



『メッセージを4件再生します──あぁ、兄ちゃん? 俺だけど。兄ちゃん、たまには帰ってこいよ。母ちゃんも心配してるぞ』


 これで何度目になるだろうか。弟の真司からの、帰省催促メッセージ。正直、めんどくさい。どうせ帰ったところで金渡されてコンビニ弁当だろ。


『──兄ちゃん、頼む。1日でいいんだ、戻ってこい。夏休みでも取ってさ』


 毎年こんなふうに言われて来たが、全部無視していた。しかし、今年はいやにしつこい。


『──父ちゃんの三回忌にも帰って来なかったろ。だからさ、ちらっと顔見せるだけでいいんだ。母ちゃんにさ』


 しつけーな。おふくろなんてどうせピンピンしてるだろ。


『──頼む……。最後、かもしれないから……』


──……? 

 4件目のメッセージは、とても弱々しく、聞き取れないくらいだった。今、最後って言ったか? 真司らしくもない。俺は4件目だけもう一度再生した。


『──頼む……。最後、かもしれないから……』


 小さく、啜り泣くような音が聞こえる。この雰囲気は、どう考えても普通じゃない。まさか、あのおふくろに何かあったわけないよな? いっつもへらへらしてたおふくろだぞ? 最後に見たときだって、元気だったし。

 しかし、この異様な雰囲気に、何か引っ掛かりを感じた。……しょうがない。今年はちょっと帰ってみるか。俺は、次の日に有休を取って、少ない荷物をまとめて車を走らせた。



 * * *



 片道2時間かけて、3年ぶりの実家に着いた。チャイムを鳴らすと、真司の声で返事が帰ってきた。


『はい?』

「ああ、真司。俺だ。憲司」

『兄ちゃん! 来てくれたのか! 待ってろ、今鍵開ける!』


 真司は乱暴に回線を切った。そのうち、どたどたと家の中を走る音が聞こえて、鍵が開いた。


「……おう」

「久しぶり。さ、あがれよ」


 真司はニッと笑った。


「お前……ちょっと痩せたか?」

「あぁ……ちょっとな」


 真司は俺にスリッパを出しながら自嘲ぎみに笑った。その言葉の意味が、その時はよくわからなかった。


「真司……おふくろは?」

「今、台所」


 俺は真司の言葉に耳を疑った。俺は、おふくろが台所に立っているところなんか見たことが無い。


「は? あのおふくろが? 何で」


 俺の問いかけに、真司はこちらを見ないまま答えた。


「見ればわかるよ」


 見ればわかるって……見てもわからねーよ。多分。もしかして、俺が帰ってくるからって、手料理作ってるとか? でも、おふくろだしな……。


「母ちゃん、兄ちゃん来たよ」


 台所につながる扉を開けると、そこには確かにおふくろが立っていた。しかし、俺はその姿にぎょっとした。おふくろの横には──大皿に山盛りに積み上げられた、不恰好なおにぎり。おふくろは、真司の声に振り向きもせず、ぼうっと、黙々と、おにぎりを握り続けていた。


「お……おふくろ……?」


 俺は驚いて、唖然としてしまった。真司はおふくろからすっと目を逸らし、俯いた。


「母ちゃん……2年くらい前から、ボケ始めたんだ……。だんだん、正気でいる時間が短くなってる」


 俺は真司の言葉が信じられず、狼狽えた。


「嘘だろ……?」

「嘘なんかつくかよ。時々、ああやっておにぎり作り始めるんだ。何でかは知らないけど」


 おふくろは、こちらを見ることなく、ひたすらおにぎりを作っている。真司は、おふくろにそっと近づいて、肩を優しく叩いた。


「母ちゃん、兄ちゃん帰ってきたよ」


 俺は真司の後ろで、どうしたらいいのかわからず、おふくろを見た。おふくろは、こちらを見ない。ただ黙々とおにぎりをつくる。

 こういう時、俺はどうすればいいんだろう。俺の頭は思いの外真っ白になっていて、言葉が見つからなかった。


「……何で、おにぎりを」


 思わず漏れた疑問に、おふくろは手を止めることなく楽しげに笑った。


「明日はねぇ。けんちゃんの運動会なんです。だからお弁当にと思って」


 けんちゃんだなんて、ずいぶん昔の呼び方だ。それに……明日? 運動会? 


「そういえば、医者も言ってた。痴呆症の人は、ふと昔にかえることがあるって」


 真司が呟く。昔に……? 


「でも俺、運動会におふくろにおにぎり作ってもらったことなんかねーよ」

「……え? じゃあ母ちゃんはどうして……」


 不思議に思い、二人でおふくろを見る。おふくろは、自分で作ったおにぎりを一つ掴んで、口に含んだ。


「やっぱり美味しくない……これじゃ、けんちゃん食べてくれない……!」


 そう言うと、おふくろは皿ごとおにぎりを床に投げつけた。瞳からはぼろぼろと涙があふれ、半狂乱になって騒ぎ始めた。


「母ちゃん! 落ち着けよ! 兄ちゃん、手伝って!」

「あ……あぁ」


 真司はあわてて暴れるおふくろを押さえ付けた。


「けんちゃんが言うのよ……母ちゃんの料理もう食べたくないって! だからっだからっ!」

「いいから落ち着け!」


 そう言って子供のように泣くおふくろを見て──俺は思い出したんだ。ずっとずっと昔、料理好きな母を持つ友達が羨ましくて、おふくろに言った。


“母ちゃんの料理は不味くて嫌いだ。母ちゃんの料理なんか食べたくない”


 思えばその頃から、おふくろは料理を作らなくなっていたんだ。


「けんちゃん、けんちゃんごめんねぇ。お母さん不器用だからっ……!」


 おふくろは──ガキの戯言、ずっと気にしていたんだ。ヘラヘラ笑ってたけど、すごくすごく傷ついていたんだ。そう思うと、胸がずきずきと痛んだ。


「おふくろ……おふくろ、もういいんだよ。もう……」


 泣いているおふくろに、何を言えばいいんだろう。何年も何年も、傷つけていたのに、どう償えばいいんだろう。

 俺は──俺は。俺はよろよろと床にへたりこんで、床に散乱したおにぎりを口に含んだ。塩と砂糖を間違えたのか、それは変に甘くて。だけど俺には、最高のご馳走だった。


「おふくろ……うまいよ。すごく。すごく、うまいよ……」


 何故だか涙が溢れて、それしか言葉が出てこなかった。おふくろは、驚いたような顔をしていたけれど、少しだけ微笑んだように見えた。


 ああ、これが──甘くてしょっぱい、俺のおふくろの味。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る