君に贈る。


 彼が空に溶けていった。私はその様子をただぼんやりと眺めていた。心に穴が開いたかのようで、今ここに立っていることも不思議に思えた。長年連れ添った夫が旅立ってしまったのだから、それも無理はないのかもしれない。

 無口な人だった。「辛い」「苦しい」だなんて、言わない人だった。弱いところを見せない人だった。だから私は、彼が急に倒れるまで、彼の具合が悪いことなんて、気が付かなかった。

 あの人がもう居ないだなんて、考えられない。頭がついていかない。あの人はひょっこり帰ってくると、今でも信じてしまっている。あまりにも実感がわかなくて、涙も出なかった。


 ねぇ、あなた。忘れているでしょうけど、昨日は、結婚記念日でした。結婚してからお祝いらしいことは一度もしていなかったけど、私は毎年覚えていたわ。

心の中でお祝いもしていたわ。そんな日々が、これからもずっと続いていくんでしょう? 


「奥さん」


 後ろから声をかけられて、私は我に返った。そこに立っていたのは、彼の友人の木下さんだった。


「この度は、本当に急で……何と言ったらいいのか……」

「いいんです。主人がお世話になりまして」


 私が深々と礼をすると、木下さんは申し訳なさそうに軽く会釈をした。


「それで……つかぬことを聞くんですが、奥さん、普段留守電お聞きになったりします?」


──留守電? 何故そんなことを聞くのだろう。


「いいえ、あまり……」

「そう……ですか」


 私が答えると、木下さんは少し残念そうに言った。何の話だろう。


「あの──何か?」


 私が尋ねると、木下さんは困ったように笑った。


「いや、いいんです。どうか気を落さずに」


 木下さんは言い終えたとたんお辞儀をして行ってしまった。私もつられてペコリと頭を下げた。



 * * *



 家に帰って、電気を付ける。人影はない。そのせいもあってか、部屋はやけに静かで、空気が重い。でも、テレビをつけるのも億劫で、私はそっとソファーに腰掛けた。

 何だか疲れてしまった。私はふうとため息を吐く。その瞬間、ふと、昼間の木下さんの話を思い出した。


「留守電……」


 留守電って、携帯のかしら。私はポケットから携帯を取り出した。言っていた通り、留守電は入っていた。私は何気なくそれを聞いてみる。


《右の引き出しの奥、開けてくれ》


──あの人の声。

 それはいつもと変わらない、あの人の声だった。口数が少なくて、分かりにくいんだから。あまりに普段どおりだったから、何だか拍子抜けしてしまう。やっぱり全部嘘なんじゃないか。みんなで私を騙してるんじゃないか。そんなことを考えながら、私は言われた通り右の引き出しを開けてみた。そこは、いつもと変わらない風景だった。


──いや、違う。


 見慣れない箱がある。リボンで綺麗に包装されている。何だろう。私は悪いと思いながらもその箱を手に取り、リボンを解いていく。


「あ……──」


 箱の中には、メッセージカードとプリザーブドフラワーがあった。特殊な加工で、半永久的に枯れない花。ずっと前にテレビでやっていて、「素敵ね」なんて言ったのを、あなたは知らん顔していた。

 覚えていてくれたの? 私の話を聞いてくれていたの? 私は震える手でカードを手にした。


『優子へ。

 いつもありがとう。

      11月2日』


 確かにあの人の字だった。忘れていると思っていたのに、結婚記念日、覚えていたの──? 

 私は思わずカードを持つ手の力を緩めてしまった。ハラリとカードが床に落ちる。


「あっ……」


 拾おうとして、カードの裏に目がいった。


『愛しているよ』


 カードの裏に、小さく小さく記された字。


──『愛しているよ』

 だけど確かに記された彼の字。


──『愛しているよ』

 無口な人だった。自分の気持ちを、うまく伝えられない人だった。


「ばか……こんなに小さな字じゃ、気が付かないじゃない」


 まして、カードの裏に書くなんて。本当に不器用なんだから。


──『愛しているよ』


──ポタリ。

 インクがにじむ。じわじわと広がる。一粒二粒、増えていく。

 あぁ、本当にあなたは逝ってしまったんだと、私はやっと声をはり上げて泣いた。

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