ある看守と囚人


 カツン。カツン。靴の音が湿った地下に響く。時折呻き声が生まれるが、それもしばらくすると納まる。厚い鉄の扉を何度も横切った。目線の高さにあわせられた覗き穴から、何かしらの念を感じるが、あえて見ないようにする。蝋燭で頼りなく照らされた通路を、その看守は歩いていた。濃い緑の制服は、第一ボタンまできっちり閉めて。よく触ってしまうせいか、つばがボロボロになった帽子を深くかぶりなおした。

 この地下牢は、死刑囚が収集されている。彼らは残りわずかな人生を虚ろな目で、この空間で、過ごすのだ。もしこれが自分だったら──そんなおぞましいこと、とてもじゃないが考えられない。とにかく、交代してからその次の交代までの時間、それをいかに過ごすかが問題だ。いつもはボーッと宙を見て過ごすのだが、いい加減それも飽きていた。眠らずに六時間も監視しろだなんて、上も酷いものだ、と思う。


「おい、交代だ」

「やっとか……後はよろしく」


 もともといた看守が大きなあくびをしながら伸びをした。鍵を手渡し、さっさと地下牢から出ていってしまう。看守はため息を吐くと、ボロ椅子に腰掛けた。



 * * *



──暇だなぁ。

 特にすることもない。話し相手もない。看守は大きなあくびをした。昔から退屈は嫌いだった。体のどの部分も使わず、ただボーッと座っているのが、たまらなく退屈だった。

 看守は何気なく自分の横にある扉を見た。プレートには『0821』と書いてある。看守の記憶が正しければ、囚人『0821』は十五人殺した殺人鬼だ。二週間後に刑が執行されるはずだ。


──十五人、か。

 その数の多さに看守は身震いした。でも、少し興味がある。殺人鬼──一体どんな人間なのか。鉄の扉で仕切られているのだ。危険なことはないだろう。看守は唾を飲み込むと、ゆっくり息を吸い込んだ。


「気分はどうだ?」


 死刑囚に気分も何もないか、と言った後に思った。怒って暴れだしたらどうしようと思ったが、それは杞憂だった。


「まぁまぁさ。ここでの生活にも慣れたからね」


 穏やかな声だった。低くて落ち着いた、感じは三十代前半ぐらいの声だった。正直、こいつは本当に殺人犯なのか? と疑ってしまう。


「あんた、俺なんかに話し掛けてもいいのか?」

「かまわねぇよ。上の連中はお前らが問題を起こさなきゃいいんだからな」


 看守は苦笑した。実際、上の連中は看守の心配などこれっぽっちもしていない。


「退屈で仕方がないんだ。話し相手になってくれよ」


 看守は椅子の背もたれに体を預けながら言った。一瞬の間。断られても、その後また暇な時間が流れるだけだ。看守は軽い気持ちだった。


「あんた、変わってるな。他の看守は俺らをゴミクズのように扱う。何故だ?」


 心底驚いたような声で囚人は尋ねた。よほど珍しかったのだろう。看守は少し考えて、笑った。


「──退屈だからさ」


 また、少しの間。呆れているのだろうか。無理もない。この答えには自分でも呆れたのだ。看守は小さくため息を吐いた。


「面白いな、あんた。変わってるあんたに聞きたいことがある」

「──……?」


 これは、話し相手になってくれるととらえていいのだろうか。とりあえず、一時の退屈しのぎになりそうだ。そう思って、看守は囚人の次の言葉を待った。


「今日の空は──どうだ?」


──空? 

 看守は眉をひそめた。そんなこと聞いてどうするのだろうか。


「どうって……天気か?」

「あぁ、そうさ。晴れているか、曇っているか。この部屋には窓がなくてね。空模様が知りたい」


 そうか。死刑囚の部屋には窓がない。脱獄を防ぐためだ。しかし──改めて空模様を聞いてくるなんて、そっちも十分変わっていると思った。しばらくここに籠もっていたら、やっぱり外の世界が恋しくなるのだろうか。自分達には当たり前に見える空。少し不思議に思う。


「──今日は、晴れだよ」


 嘘をつく必要もない。看守は事実を述べた。看守の言葉を聞いた囚人は、静かに言った。


「そうかぁ」


 やわらかな声で、満足気に言った。



 * * *



 それ以来、看守と囚人はよく会話を交わすようになった。最初はただの退屈しのぎだったのだが、毎日のよう会話をしていたので、看守にとってそれは日課になっていた。

 会話をするたびに囚人は尋ねた。


「今日の空はどうだい?」


 看守は正直にその日の天気を教える。晴れと言っても曇りと言っても、囚人はいつも同じことを言う。


「そうかぁ」


 会話をしている中で、その声が一番幸せそうなのだ。きっと、顔にも幸せそうな笑みを浮かべている。いつもはその返事を聞いた後、故郷の話や上司の話、バカ話など他愛のない話をするのだが、その日は何となく気になって聞いてみた。


「お前は、どうしていつも天気を尋ねるんだ?」

「言っただろう? この部屋には窓がない」

「そうじゃない。なぜ空を気に掛ける」


 囚人は少し黙った後、フフ、と小さく笑った。笑った理由がいまいち分からず、看守は首を傾げた。


「空が好きだからさ」

「空が?」


 看守は静かに聞き返した。囚人はゆっくり息を吸うと、語りだした。


「この汚れきった世界を包んでるんだ。穢れもせず。すごいと思わないか? 青くて、広くて。俺は、空が大好きなんだ。だから……送ってやった。こんな世界より……空の上のが住みいいと思ってね。そのせいで捕まっちまったがね」


 送ってやった──自分が殺した十五人のことだろうか。


「しかし、お前のしたことは重罪だ」

「ははっ──違いない」


 囚人は力なく笑った。本人は、正しいことのつもりだったのだろう。

よかれと思ってやったのだろう。空に溶けることが、最高の幸せだと考えたのだろう。

 何故だか、『狂った人間の戯言』として、聞き流すことができなかった。


「……そんなにいいもんかね」

「そうさ。すごく、ね」


 ゆっくり空を見上げたことがなかった看守は、今度ゆっくり眺めてみようと思った。何かに、気付けるかもしれない。青い空を、好きになるかもしれない。


「ここに入ってから、まともに空が見れないからね。だからせめて、あんたから聞いて、頭ん中に思い浮べてるのさ。暗く寂しい刑務所暮しも、少し明るくなる」


──だからいつも幸せそうなのか。

 少しだけ納得した。囚人に看守の自分が光を与えている──少し複雑な気持ちになった。


「──そうか」


 恐ろしいと思っていた殺人鬼が、普通の人間に見えた。少し、道を間違えてしまっただけ。ただ、空を愛していただけ。一般的に許されない行為をしてしまった彼は、空に溶けることはない。下へ下へ、堕ちていくのだ。死してなお。それを考えると遣る瀬無くなって、看守は帽子を深くかぶりなおした。



 * * *



 次の日──囚人『0821』を閉じ込めていた鉄の扉が重々しく開いた。


「出ろ、『0821』。……執行だ」


 二、三人の看守が部屋に入る。その中に、いつも話し相手をしていた男がいることを、囚人は何となく気付いていた。不自然にこちらを見ない看守が目に入ったからだ。それは、目隠しを付けられて視界が奪われ、一瞬しか見えなかったが。

 囚人は手錠までかけられ、完全に自由がなくなった。ただ、口と耳は使える。


「いよいよか。何だか緊張するね」


 囚人の言葉に答える看守は、一人もいなかった。



 * * *



 死刑場までの道が、果てしなく遠く感じる。今までも何人も死刑場まで導いていたが、今回ほど気が重いものはない。この二週間、ずっと会話を交わしていた相手。情がわいたのだろう。殺される瞬間を見たくない。


「結構歩くんだね。こんなに歩いたのは久しぶりだ」

「──黙れ、0821」


 “看守”としての立場で、看守は言った。声で自分だと気付いたのだろうか。囚人が口元だけで微笑むのがわかった。すると、死刑場へ繋がる扉が開く。死刑場は外にあるので、乾いた風が通り抜けた。


──“空”。

 ずっと待ち望んでいた“空”が、こんなに近くにあるのに。見ることさえ、叶わない。

 誘導され、地面に打ち付けられた柱にくくられる。準備された真っ黒な銃が鈍く光った。看守は、静かに囚人を見ていた。もうじき、目もあてられなくなる。


「……最期に、言いたいことはあるか」

「一つだけ」


 上の連中の問いに、囚人は言った。そして、ゆっくり息を吸い込む。


「──今日の天気はどうだい? 今、目隠しで見えないんだ」


 看守達は眉をひそめていた。危ない人間を見る目で囚人を見ている。ただ、一人の看守を除いて。

 その看守は、動きを止め、じっと囚人を見つめた。まるで、古くからの友人を見るように、その瞳は優しく穏やかだった。後で上に何て言われようと、かまわない。

 今だけは、光を与える人間として。


「──今日は…………快晴、だよ」


 対する囚人は、いつものように、幸せそうに満足そうに笑った。


「そうかぁ」


 刹那、上の連中が右手を挙げた。銃を構えていた者達が、一斉に指先に力をこめた。銃が火を吹き、赤い花が咲く。看守はボンヤリと、その様子を眺めていた。



 * * *



「早いとこ撤収しよう。雨が降りそうだ」


 遠くで同僚の声がする。看守は灰色の空を眺めながら、動けずにいた。

 嘘をついたことに罪悪感はない。堕ちてゆく瞬間、奴は青い空を想像できただろうか。向こうはきっと暗いだろう。だからせめてその青を覚えておくといい。


「…………本当に、雨が降りそうだ」


 独り言は、厚い雲が吸い込んでやがて消える。看守はボロボロになった帽子を深くかぶりなおして、歩きだした。

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