1-7

 重い足取りで改札を抜け、階段を降りる。折よく停車していた各駅停車に乗り込むと、戸口脇に立って手すりに寄り掛かり、颯太は小さく息をついた。


『キミと同じクラスになれたことが何よりの収穫だったよ、真白颯太クン』


 その途端、黒沢琉生のあの言葉が脳裏をよぎり、颯太の背筋にゾッと寒気が走った。


――いったいどういう意味だよ、あれ。


 自分を見つめる琉生の目が、獲物を見つけた爬虫類のような暗い喜びに満ちた光を宿していた気がして、颯太は思わず自分の左腕を右手で掴んで身震いした。


「あれ? おまえ、真白じゃね?」


 突然、背後から響いてきた聞き覚えのある声にハッとして振り返ると、数メートル離れた座席に座る男が笑顔で手を振っているのが目に入った。


「あれ、もしかして……坂本?」


 その名を呼んだとたん、颯太の頭に中学時代ののんびりと楽しかった思い出が一気に蘇ってきた。目頭が熱くなるような気分に襲われて焦りながら、颯太は急いで彼の座席の前に移動した。


「久しぶりだなー、二年ぶり? ちょっと背が伸びたんじゃね?」


「そうかな……坂本も伸びたんじゃね? 座高がさ」


「相変わらず失礼なヤツだなーw まあ、元気そうだから許してやるけどよ」


 軽口をたたいて笑いあいながら、颯太は気負わず自分らしくいられるその懐かしい感覚に、胸苦しいような心地すら抱いていた。

 坂本は笑いを収めると、目の前に立つ颯太の全身をひととおり眺めて、首をかしげた。


「それにしても、見慣れない制服だけど……おまえ、どこの高校に行ってるんだっけ」


 その質問に、颯太は頭の芯が凍り付くような気がして一瞬呼吸を止めた。


「え、と……港南台」


「……マジ?」


 表情を曇らせた坂本の顔から目をそらしつつ、颯太は早口でまくしたてた。


「一応、この夏から留学する予定だから……私立だと金かかりすぎるだろ」


「あ、なるほどそういうことか。それは確かに……でも、たいへんじゃね? まあ、港南台ならそれほどど底辺ってわけでもないけど、それにしたって公立だからな……」


 颯太は斜め下に目線を固定したきり動かさなかった。坂本のいたわるような視線がただひたすら苦しくて腹立たしかった。


「あ、まあそんなことよりさ、とりあえずせっかく会えたんだし、久しぶりにウチに寄ってかね? おまえに見せたいもんがあるんだ」


 颯太はようやく顔を上げると、凍り付いた空気を溶かすべく先ほどとは打って変わってウキウキした調子で誘いかける坂本の顔に、ゆるゆると視点を合わせた。



 坂本の自宅は颯太の住む町の西側の一角にある。

 というより、富裕層は大概が颯太の住む町の近辺に集まっている。富裕層が落とす税金により保たれた清潔で美しい街並みと、警察の重点的な治安維持に守られたこの地区は人気のエリアであり、周辺地域に比べて数倍の値で売り買いされているため、貧困者は住みたくても住めないのだ。

 中学時代も幾度か訪れたことのある静かで広々とした通りを抜けると、いつもながらの壮麗さをたたえた白亜の豪邸が目に入ってくる。

 坂本が指紋認証の仰々しい門を開き、長いアプローチを抜けて邸宅の中に入ると、走り出てきたお手伝いさんらしき人物が恭しく頭を下げた。


「お帰りなさいませ俊樹様。お友だちでいらっしゃいますか?」


 颯太はどぎまぎしながらお手伝いさんに頭を下げた。颯太の家ではお手伝いさんは雇っていないので緊張するのだ。対して、坂本はどうということもない様子で軽く片手をあげた。


「ああ、ただいま石井さん。あとで俺の部屋にお茶を持ってきてくれる?」


 坂本の親は大手商社の重役で、その辺の富裕層の数倍以上を稼ぐともっぱらの評判だ。富裕層が集う私立中学でもその豪勢な暮らしぶりは有名だった。


――相変わらず、羽振りがいいんだな。


 さっさと大理石の階段を上がっていく坂本の後ろ姿を見上げながら、颯太は思わずため息をついた。


「ここだよ」


 いつも案内されていた自室とは違う部屋の扉を開けると、坂本は振り返って颯太を手招きした。

 坂本の後に続いて恐る恐る部屋に入ると、いきなり大型の液晶画面が六台ずらりと並んだ様が目に飛び込んできて、颯太は息を呑んだ。


「……うわ、スゴイ」


 颯太の反応が予想通りだったのだろう、坂本は満足げな笑みを漏らした。


「だろ? この間父さんに頼んでそろえてもらったんだ」


「え、これ……おじさんのじゃなくて、坂本の?」


「うん、俺専用。ちょっとデイトレに興味があってさ。今の時代、デイトレくらい知っておかないとヤバいだろ?」


 颯太は感心しきって画面をのぞき込んだ。色とりどりの株価の表やグラフがぎっしりと表示されている。


「スゴイな……父さんの部屋にはあるけど、さすがに自分専用のは持ってないよ」


「おまえんとこのオヤジさん、その道のプロなんじゃね? 教えてもらえばいいじゃん」


「そうだね……父さんはまだ早いようなことを言っていたけど、実を言えば僕もちょっと興味があるんだよな」


 坂本はさもありなんと言いたげに頷いた。


「コレをやってるとさ、ホント、真面目にバイトとかするのがバカらしくなるよな。ほんの一瞬でとんでもない額の金が動く。うまくやれば一気に数百万儲けちゃえるし。貧乏人はよく時給を上げろデモなんてやってっけど、あんなことをしてる暇にちょちょっとこういうので稼いじゃえばすむ話なのにな」


 颯太の耳には坂本の話は半分も届いていなかった。目の前の壮観なデイトレ画面に夢中だった。やれやれとでも言いたげに肩をすくめる坂本を視界の端に捉えながら、颯太はうわの空で頷くのがやっとだった。



「デイトレ?」


 颯太の父……真白啓太は箸を止め、わずかに眉根を寄せて颯太を見た。

 これは颯太の話に決していいとは言えない印象を抱いている時に特有の反応だが、そういう反応をされることは想定済みだ。颯太は臆さず話を続けた。


「今日さ、坂本……中学の時同級だったヤツなんだけど、久しぶりにそいつんちに行ったら、部屋がすごいことになっててさ。液晶画面六台も並べてデイトレをやるんだって自慢されたんだ。これからの時代、デイトレくらいやっておかないと生き残れないからって」


 啓太は箸を止めたまま、じっと颯太を見つめて黙っている。


「僕も、やっぱりある程度そういうことができるようになっておいた方が将来的にいいのかな、なんて思うんだよね。時給いくらでコセコセと稼ぐより、絶対その方が割がいいしさ。だから……」


「おまえにはまだ早い」


 有無を言わせず断じられ、颯太は言いかけた言葉を呑みこんで父親を見つめた。


「その前にいろいろとやっておくべきことはあるはずだ」


「前にって……もちろん、やるべきことはやってるよ」


「学校の勉強だけじゃない。おまえは夏から留学を控えてるんだ。英会話の学習は進んでるのか?」


「大丈夫だよ。ほら、家庭教師の飯島さんだって、この間言ってくれてただろ。しっかりやってるって……」


「What do you like to do in your free time?」


 突然流暢りゅうちょうな英語でふられて、思わず口に入れた飯の塊をよく噛まないうちに呑みこんでしまった。


「え、……えっと、I like to go to 、art……」


 しどろもどろで答える颯太を眺めながら、啓太は小さく鼻でため息をついた。


「考えすぎだ。単純に、I like looking at artで通る。こんな簡単な質問に即答できないようじゃまだまだだな」 


「そうね。もう少し身を入れて勉強に集中した方がいいわ。渡航までにあと三ヵ月を切ってるんだから」


 台所から山盛りのサラダを運んできた女性……颯太の母親である真白さやかがダメ押しの一言とともに席に着く。颯太は斜め下を見て黙り込んだが、目線はそのままにポツリと口を開いた。


「……海外留学なんて本当に必要なのかな」


「え? 必要に決まってるじゃない。貴重な経験になると思うわよ」


「そんな経験より、現実にお金を稼げるデイトレの技を鍛えたほうが役に立つと思うけどな。だいたい、留学がなければ、僕は坂本やみんなが通ってる私立校に行かれたはずだったのに……」


「いろいろな世界を見ておくことは大事だ。この国がこのまま続いていくかどうかなんて誰にもわからない。いつどこに放り出されても生きていかれるように、可能な限りいろいろな経験をしておけ」


「国がなくなるって……そんなネットの陰謀論みたいなことを父さんが言うとは思わなかったな」


 腹立ちまぎれに毒づいてから、颯太の頭にふと、同じようなセリフを吐いたある人物の姿が過ぎった。


『僕は海外移住も視野に入れてるから、海外で生きるために使える可能性を一つでも増やしておきたいんだ』


――黒沢、琉生。


 同時に、底光りする目で自分を見つめながら言い放ったあの一言が頭をよぎる。


『とても人殺しの息子とは思えないよ』


 颯太は啓太の顔を上目遣いに盗み見た。


「……そういえば父さんと同じようなことを、同じクラスのヤツも言ってたよ」


「ほう、新しい学校の友だちか?」


「別に友達ってわけじゃないけど。同じクラスの、黒沢琉生ってヤツ」


 意識的にゆっくり名前を発音してから、啓太の表情の変化を注視する。啓太は箸を止めるでもなく平然とその名を聞き流し、小さくうなずいた。


「公立に通っていても、見えている子には見えているんだな」


「そいつ、父さんのことを知ってるみたいだった」


 その言葉に、啓太は初めて目線を上げて颯太を見た。


「そうなのか? 仕事の関係かもしれないな。黒沢……何と言ったかな」


「琉生。女みたいな名前だけど男」


「そうか。覚えておくよ」


 そう言って頷くと、啓太は先程運ばれてきたサラダに箸を伸ばした。


――知らないみたいだな。


 まるっきり平常運転な啓太の様子に拍子抜けするような気分に襲われながら、颯太は一口みそ汁をすすった。

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