1-6
颯太が保健室から教室に戻ると、すでに教室の人影はまばらだった。カバンから弁当箱を取り出すと、包帯を巻かれた不自由な右手をかばいつつ包みを開ける。指先の自由は何とかきくのでフォークは握れそうだが、鉛筆を持つのは難しそうだ。五限目はパソコンでノートをとる許可を得るしかなさそうだが、そんな様子を見せるとまた何かとやっかまれそうな気がして、颯太は小さくため息をついた。
「折れた?」
突然頭上から降ってきた声に颯太が驚いて顔を上げると、購買で買って来たらしいパンの包みを手にした琉生と目があった。あわてて手元に目線をおとし、無意味におかずをつつきながら答えを返す。
「いや……打撲だって」
「それはラッキーだったね」
平板な調子で言い捨てると、席についてパンの袋を開け始める。颯太はフォークを動かす手を止めて、眉根を寄せた。
「……折れてた方がよかった?」
パンをほおばったまま、琉生はちらりと颯太に目線を流した。
「別に。純粋に驚いてるだけ。ヒビくらい入ってても不思議はなかったから」
そのまましばらくは二人とも黙々と食べ物を口に運んだ。天気がいいので、おおかたの生徒は屋外でつかの間の自由を満喫しているのだろう、教室内には琉生と颯太、あとは数人の女生徒が窓際に集まって談笑しているほかには誰もいない。
一つ目のパンを食べ終え、水筒の水をひとくち飲んでから、琉生がおもむろに口を開いた。
「藍原くんって、有段者かもね」
「え?」
いきなり思いがけない言葉を投げられ、颯太が驚いたように弁当箱から顔を上げた。やっとのことでフォークに突き刺した唐揚げが、その反動で再び弁当箱の中にぽとりと落ちる。
琉生は二つ目のパンの袋を開けながら、そんな颯太に目線を向けないまま言葉を継いだ。
「あのくらいの腕があれば、ほとんど痛まないように打てるはず」
しかし実際、藍原の放った小手打ちは想像を絶するほど痛かった。まるで、痛むポイントを知っていて、そこを狙い撃ちしたかのように。颯太が動きを止めて言葉を失っていると、琉生はチラリと横目で颯太を流し見た。
「まあ、それだけ真白クンの立場は難しいってことだね。同情するよ」
「……それはどうも」
茶化すような物言いにムッとして吐き捨ててから、颯太はいぶかしげに琉生を見た。
「というか、ひょっとして黒沢くんも、剣道……」
「習ってるよ」
「段位とか……持ってるの?」
琉生はパンを食べながら、どこか面倒くさそうにうなずいた。
「経験年数は長いからね」
その言葉を聞くなり、颯太はわが意を得たりとでも言いたげに頷いた。
「……やっぱりね」
「なにが?」
不審げに自分を見る琉生の視線に応えるように、片頬に底意地の悪い笑みを浮かべる。
「あの時僕に言ったこと、ウソだろ」
琉生はパンを口に運ぶ手を止めた。
「あのポルシェ野郎に飼われてるとか、人権無視で好きなようにされてるとか……そんな立場なのに、段位をとれるほど長く習い事をさせてもらえるって、ずいぶん扱いがいいよね。人権無視の飼い犬に金をかけて習い事をさせてくれる飼い主って、アンバランスすぎてわけがわからない。あり得ない設定だと思うんだけど」
言い捨ててからおもむろに卵焼きを頬張る。琉生からのレスはない。心理的優位に立った颯太は、さらにもう一歩踏み込んだ話題を投げてみる。
「だいたい養子縁組基本法だって、ネットで調べたけど悪い噂は流れてなかったよ。あの法律のおかげで明るい未来が開けたとか、実の親の暴力から逃れられたとかいい話ばっかりで、世間からは歓迎されてるとしか思えなかった。あれのどこが悪法?」
琉生はパンを手にしたまま、颯太の眉間付近に尖った視線を突き刺して黙っている。
「持続可能な未来のために新しい家族の在り方を模索するってふれこみには賛同する意見ばかりだし、検索にヒットするのはこの法律のおかげで明るい未来が開けたって人の話ばかり。批判的な内容のブログもあるにはあったけど、そういうブログにはびっしり反対意見が書き込まれてる。世間の大半はこの法律を肯定的にとらえてて、批判的なのはごく少数って感じだった。どこが悪い法律なのか、正直僕にはわからなかったよ」
「……そうだろうね」
琉生は唇の端に薄い笑みを浮かべたようだった。
「巷に流れてる情報は、見た人がそういう印象を持つように作られてるから」
「作られてる? マスコミはともかく、ネットは使う人が自由に情報を取捨選択できるし、発信することもできるメディアなのに? それって陰謀論だと思うけど」
琉生は口をつぐみ、斜め下に目線を流した。
何を考えているのか、そのままじっと黙っている琉生を見て、反論の糸口でも探しているのだろうと颯太は思った。カネ目当てに体を売る話なんて最近は珍しくもなくなった。男色の中年男にもてあそばれる醜態を見られたからって、それをごまかすために大げさな作り話で自分を悲劇の主人公に仕立て上げ、さらに相手の反応を見て悦に入るなんて悪趣味が過ぎる。嫌な気分にさせられた借りをきっちり返してもらうべく、颯太がさらに琉生を追い詰めようと口を開きかけた時だった。
「僕を車に乗せたあの男の名は灰谷信三。宇治テレビのチーフディレクターを務める四十四歳独身。知ってる?」
唐突に耳に入って来た聞き覚えのあるその名に、颯太は息を呑んで目を見張った。
「その人って、確か……慈善事業に家財を投じてることですごく有名な人、……だよね」
まさかそんな有名人だとは思わなかった。だからあの時、あんな天気でサングラスをかけていたのかと、颯太がドキドキしながら一人納得していると、琉生は小さく苦笑したようだった。
「世間からは身寄りのない子どもを引き取りきちんと教育を受けさせて独り立ちさせるボランティア精神にあふれた人物ってことで通してるけど、その実態は重度のショタコン。女には一切興味がないから結婚もせず、若い男の子を引き取っては慰みものにしてるただのヘンタイだよ」
「……まさか」
琉生の目に宿る鋭く冷たい光に突き刺され、颯太は言いかけた言葉を呑みこんだ。
「真実なんて当事者にしかわからない。だけど、世間では世の中の人に広く知れ渡っている言説こそが真実で、当事者がどんなに言葉を連ねても、世間の常識と食い違えばそれらは問答無用でデマになる。踏みつぶされる。なにが真実かなんてどうでもいいんだ。みんなが知っている、真実だと「信じられてる」ことがあればそれで。宗教と同じだよね」
吐き捨てるように呟いてから、颯太に唇の端だけで笑いかける。
「でもね、僕たちみたいな境遇の人間にとっては、灰谷の労働条件はまだいい方なんだ。「教育」という交換条件があるからね。僕はそれを得るために、灰谷のところで「働いてる」。十歳の時からずっとね」
「……ずっと?」
「そう、ずっと。毎日あんなことをさせられてる」
琉生はゆっくりと頷くと、手にしていたパンをひとくちかじった。
「灰谷が僕で遊ぶのは一日数時間。その数時間を我慢しさえすれば、自分一人では絶対手が届かなかった将来的な安定が手に入る。灰谷はヘンタイだけど、契約はきちんと守ってくれる。だから剣道も習わせてくれてるし、塾にも行かせてくれてる。ある意味、ありがたい存在だよ。世の中にはそれすらないまま、ただ慰みものにされて死んでいく子も多いからね」
咀嚼しながらくぐもった声でそう言うと、言葉を失って固まっている颯太にちょっと笑いかけてみせる。
「この学校に転校させられたのは想定外なんだけどね。宇治テレビの業績不振のせいで、剣道その他の習い事を辞めて私立に通い続けるか、それともそれらは続けて公立に転校するかを選択させられたから」
「……え、じゃあ、剣道と塾のために、この公立に?」
何ということもない様子で頷く琉生を、颯太は信じられない思いで見つめた。
颯太の頭に、私立の中学に通っていたころの、同質な人間が集まっていることからくるあの安心感がよみがえる。自分と同じような家柄の、同じような境遇の人間が集まっていることによる、精神的な開放感。颯太にとっては、細かいことに気を遣わずとも自分が自分らしく存在していられる場所だった。できることならあの頃に戻りたいと、これまでにも何度思ったことだろう。
そんな颯太の内心などつゆ知らず、琉生は平然と言葉をつづけた。
「武道は使えるからね。きちんと習って段位を得れば、いろんな意味で助けになる」
「そうかな……学校でも剣道とか柔道をやらせるけど、あんなの正直言って軍国主義を振りかざしたい政権側の自己満足としか思えないけど」
ささくれだった気分で喋ったので、つい否定的な言葉が口を突いて出た。ハッとしたように琉生の表情をうかがい見る颯太を、琉生は面白そうに眺めやった。
「確かに、学校なんかでちょっとかじったくらいじゃ何の役にもたたない。軍国主義振りかざしたい政権側の自己満足ってのは言い得て妙だね。ただ、ある程度投資してその技術を一定のレベル以上に高めることができれば意味はあるよ。僕は海外移住も視野に入れてるから、海外で生きるために使える可能性を一つでも増やしておきたいんだ」
「私立に行くよりも、か……。でも、はっきり言って公立は甘くない。後悔することになるかもよ」
「後悔って?」
颯太はチラリとクラス内を見渡し、彼らの姿がないことを再度確認してから、低い声でささやいた。
「緋本はたぶん、このままじゃ終わらないよ」
琉生は意味が分からなかったのか、パンを食べながら少しだけ首を右にかたむけてみせた。
「あいつは自分が勝たなきゃ気が済まない。たぶん、今後もちょっかいをかけられると思う」
「ああ、そういうこと?」
琉生は得心が言ったようにうなずくと、何を思ったのかクスッと笑った。
「いろんな意味で面白い学校だね、ここは。公立に行くことを選択して正解だったよ。少なくとも、退屈はしそうにない」
颯太は信じられない思いでクスクスと肩を揺らす琉生を眺めやった。恐怖と苦痛を味わうくらいなら退屈の方が百万倍マシだと思っている彼としては、琉生の反応はまるっきり意味がわからなかったからだ。
「それに」
と、琉生が言葉を切って目線をあげ、下方からまるで睨み上げるように颯太を見た。
「……え?」
ドキリとして動きを止めた颯太を凍り付くようなまなざしで突き刺しながら、琉生は唇の端をわずかに上げ、顔の下半分で笑った。
「キミと同じクラスになれたことが何よりの収穫だったよ、真白颯太クン」
ぞくりと背筋に悪寒が走り、颯太は思わず息を呑んで居住まいをただした。
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