1-5

「それじゃ、今日は班ごとに対戦形式で小手打ちと胴打ちの練習をする。いつも言ってることだが、寸止めの感覚を忘れずに……」 


 頭上を通過する教師の言葉を聞き流しながら、颯太はぼんやりと前方に目を向けていた。

 彼の視界にとらえられているのは、体育館の床に座り教師の話を聞く生徒集団の隙間から垣間見える、茶色い頭――黒沢琉生。

 颯太の頭には、琉生が発したこの言葉がこびりついて離れなかった。


『とても人殺しの息子とは思えないよ』


――人殺し?


 いったい琉生が何のことを言っているのか、颯太にはさっぱり見当がつかなかった。芦原銀行支店長という肩書を知っていたことから察するに、彼は颯太の父親を知っており、「人殺し」という呼称は恐らく颯太の父親に向けられたものなのだろう。だが、颯太の父親は温和で寛大、誰に対しても丁寧な物腰を崩さず、部下からの信頼も顧客からの信用も厚い、そんな人物として世間では認知されているし、颯太もそれは父親の実相を正当にとらえた評価だと思っている。人殺しなどと表現されるような犯罪行為をはたらくわけがないし、父親のような人間にそんな例え方を用いるのは筋違いもはなはだしいと思っていた。


『怖いのはあんたたちの方じゃん……あんたたち富裕層は、無意識に、無自覚に、毎日誰かを殺してるのに』


 例えば、殺人のような具体的悪行に対してではなく、富裕層である自分たちに対すひがみ、ねたみ。そんな感情から発された言葉であるとするなら、颯太にもなんとなく納得できる気がした。そういった感情をぶつけられる場面には、颯太もこれまでの人生でそれなりに出会ってきているからだ。


『颯太はアッパー階層だからね。なおさら知るわけがないよ』


 颯太の脳裏に、葵がなにげなく発した言葉がよみがえる。

 昨今は、住む場所や就ける職業が収入に応じて固定化した結果、階層分化が進み、各階層間の断絶が問題になってきていた。それまでは「平等」を尊重したり「差別」を憎んだりする言説が建前とはいえ主流だったが、最近ではマスコミや政府、教育機関ですら、「現実として」という前書きとともに公然と差別的思考を助長する傾向が強くなってきってきている。アッパー、アンダーと言った分類もすっかり定着し、その階層ごとに住み分け、階層間の文化的交流もほとんどないのが現状となっている。


 もちろん、別階層社会への移動が法律で禁じられているわけではないので、多少の混在は認められる。「海外留学を控えているために一時的に下階層の公立へ通う」颯太のような人間はまさにその典型であり、そうした立場の人間は、否応なく他階層との摩擦を強く体験することとなる。


 現在は教育活動でも法の支配が徹底し、違法行為は厳しく処罰される。以前は「イジメ」などというあいまいな言葉でくくられていた人権蹂躙じゅうりん行為や暴力行為に対しても同様だ。そのかいもあってか、あからさまな攻撃をされることは少なくなった。とはいえ、それはあくまで「彼らの容認限度の範囲内」にある場合であり、のりえればその限りではないのだが。


 颯太の場合、温和な性格に加え、運動能力にしても容姿にしても平凡なため、彼らの容認限度を著しく刺激することはなかった。表だった攻撃も今ではほとんどされなくなっていたが、生活のはしばしでそれに類する対応はいまだに受けることがあり、表には出さずとも自分のことを忌々しく思っている人間が存在することを颯太は知っている。「アッパー階層」所属という避けようのない事実だけで、アンダー階層の人間にとってみれば不快感をもよおすには充分すぎるのかもしれない。 


「並んでいる列の前後にいる者同士で対戦するように。一本勝負で、制限時間は三分だ。繰り返すが、突きと面打ちは禁止だからな。じゃあ、班ごとに分かれて開始してくれ。試合をしていない方の二名は審判とタイムを分担するように」


 颯太の前に並んでいた生徒、藍原祐介は、前後の者同士が対戦するという教師の言葉に反応するかのように、チラリと目線を後ろに並ぶ颯太に流したが、琉生に気をとられていた颯太がそれに気づくことはなかった。


 まず颯太と藍原が対戦し、もう一人の班員である緋本ひもと哲広が主審、琉生が副審とタイムを担当することになった。颯太は呼吸を止めて悪臭の立ちのぼる防具をつけ、竹刀を握る。颯太は運動神経があまりいい方ではない上に、中学の授業では柔道を選択したため、竹刀を握ったのは一連の授業が初めてだ。柔道で骨折した痛い経験があったため剣道を選択したのだが、正直どちらもやりたくなかった。


 対戦する藍原を見やる。彼とは今回、初めて班が一緒になった。これまで特に言葉を交わしたことはなかったが、勉強もそれなりにできるし、体格も普通で、攻撃的な行動をすることもない。緋本よりはまともそうな相手でよかったと胸をなでおろしつつ、颯太は蹲踞そんきょの姿勢をとって剣先を交わした。


「はじめ!」


 緋本の合図で立ち上がると、颯太は中段に構えて小手先を狙う。すり足がうまくないので移動するのもたいへんだ。そうしてしばらくにらみ合っていたが、足の動きに気を取られたのだろう、颯太の構えに隙ができた。藍原の目に鋭い光が宿る。


「……!」


 形容しがたい痛みが手首を貫き、颯太は目を見開いて呼吸を止めた。

 小手に当たった竹刀はすぐに離されることもなく、押し付けるようにして颯太の手首に食い込んでいく。

 琉生は顔を上げると、微かに眉根を寄せて主審である緋本を見やる。緋本は旗を手にしたまま腕を組んで二人を眺めやっていたが、琉生の視線に気づいたのか面倒くさそうに手にしていた旗を上げた。


「こてありー」


 やる気のない緋本の声が上がると、手首を抑えてしゃがみ込み激痛に必死で耐える颯太をしり目に藍原はさっさと蹲踞そんきょの姿勢をとり、一礼して防具を脱ぎ始めた。

 面をとったところで初めて、藍原はまだ試合場にうずくまっている颯太に感情のこもらない目線をチラリと投げた。


「ごめんね真白くん。僕、ヘタクソだから痛かったかな」


「大したことねーだろ防具をつけてんだから。おい真白、次の試合を始めっから、さっさと防具を脱いで黒沢に渡せよな。大げさなんだよ、おまえ」


 緋本は藍原の空々しい言葉を即座に全否定し、イラついた調子でトゲのある言葉を颯太に投げつける。颯太は必死で立ち上がると、まだビリビリする手首をさすりながら防具を脱ぎ始めた。 


「大丈夫?」


 防具を受け取りに来た琉生にそう声をかけられて、颯太は少々意外な気がしつつも、小さくうなずいてそれにこたえた。


「藍原くんも、君たちと同じだったみたいだね……」


 震える右手を左手できつく抑えながら独り言のように呟く颯太にちらりと目線を流すと、琉生は無言で防具をつけ、竹刀を手に試合場に立った。


 ようやく少しだけ痛みの治まって来た手首に一息つくと、颯太は琉生が置いていったストップウオッチを首から下げ、試合場に立つ二人に目を向けた。

 緋本はクラスでも体格のいい方で、琉生との身長差は十五センチほどもある。対する琉生の小柄で華奢きゃしゃな体格は、女子生徒の中に混じっていても違和感がないほどだ。体格差に加え、運動神経も抜群の緋本とでは勝敗は歴然とし過ぎているように思われた。

 その上、緋本は階層区分で言えば最下層クラスで、彼にとっては学校にいるほとんどの生徒が自分より上に位置している。そのためか力による優劣に強いこだわりをもち、新入りと見れば片端からマウンティングを仕掛けることで有名だった。颯太も仕掛けられた経験があり、当然緋本の圧勝だったのだが、大きなケガこそなかったものの、相手意識のない危険な行動を連発された覚えがある。たった今、痛い目に遭ったばかりということもあり、颯太はひとごとながら重苦しい気分に襲われた。


 礼をしてから、琉生と緋本は三歩前に出て、蹲踞そんきょの姿勢で剣先を交えて向かい合う。面越しに、緋本が明らかにバカにしたような表情を浮かべながら鼻先で嗤うのを見て、颯太は嫌な予感が的中するだろうことを確信した。


「はじめ!」


 藍原の合図とともに、二人は立ち上がった。緋本は中学時代も授業で剣道を選択していたらしく、運動神経も抜群なので竹刀の扱いもすり足も驚くほどスムーズだ。間合いを測りながら素早く移動して琉生を翻弄ほんろうする。対する琉生は、正面が緋本に向くように体の向きを変えるだけで、ほとんどその場から移動せず、剣先も動かさない。


「なんだよ、ビビっちまって動けないのか?」


 すり足で移動しながら緋本が低い声でささやくと、琉生は無表情のまま、少しだけ目線を上げたようだった。


「安心しなよ、おまえみたいなのを相手に、俺が本気を出すわけねーじゃん」


 言うなり、緋本は右足を踏み込んで打突の姿勢に入り、頭上に高く振りかぶった竹刀を力いっぱい振り下ろした。寸止めのことなど毛ほども考えていないだろうことは、その勢いを見ても明白だった。

 

――やられる!


 あの竹刀が直撃したら昏倒するのではないか。颯太が思わず息を呑んだ時だった。

 琉生がすり足で前進した。

 ハッとする間もなく、琉生は流れるような動作で面打ちをかわすと、必然的にがら空きになった緋本の胴を正確に打ちぬき、振りぬいた。本当に、一瞬の出来事だった。

 よほど予想外の事態だったのだろう、打たれた緋本はもちろん、主審の藍原も何が起きたのかわからない様子でぼうぜんとしている。颯太も思わず思考停止してしまったが、すぐにはっとわれに返ると、急いで赤い旗を上げ「胴あり!」と叫んだ。

 藍原もようやく気を戻し、「勝負あり」と叫んで赤旗を上げた。試合開始後、わずか一分の出来事だった。

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