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『深刻な少子高齢化社会を迎え、その対策に本腰を入れた政府は、この年より出産援助金として子どもを一人あたり五十万円を支給することを決めました。しかし、これにより出産は増加したものの、遺棄されたり、虐待される子どもの数が増え、大きな社会問題となりました。この解決に向けて2037年に制定されたのが、養子縁組基本法です。従来、養子縁組は、養子を迎える側に大きな責任と覚悟が要求されました。また、遺産相続の問題で、子どもを迎えたくても迎えられない家庭も多く存在しました。こうした厳しい要件を緩和し、養子縁組をもっと気軽で身近なものにしてほしい、という市民の強い願いから、養子縁組基本法は生まれました……』


 パソコンの画面を眺めながら、颯太は小さく溜息をついた。

 颯太は「養子縁組基本法」というものについて調べていた。難解な法律の原文を読み解くほどの知識は持ち合わせていなかったので、その法についてある程度かみ砕いて説明しているサイトを探して検索をかけたのだが、検索トップに出てくる内容はどれもくだんの法律について肯定的だった。それらによれば、この法律は「新たな社会の在り方に適合した法」であり、「市民の新たな欲求に対応した結果」できたもので、「旧来の価値観を超えて、新たな未来を切りひらく」方法として期待されているらしい。あの少女が言っていたような否定的な内容は、ほとんど見当たらなかった。


 集客力のあるサイトは操作されている可能性もあると思い、颯太は実際に「養子」として生きている人たちの生の声を拾おうと、SNSや個人のブログもあたってみた。確かにその中には、いくつか否定的な見解を述べている記事もあった。が、それらの多くはまとまりなく自分の感想を述べるにとどまり、説得力に欠ける印象は否めなかった。また、そうした記事の返信欄はブログ主を「デマ」だの「被害者妄想」だのとののしる内容でびっしりと埋められ、大多数がその内容を否定的に見ていることがすぐに見て取れた。逆に、「養子縁組基本法のおかげで今の自分がある」「養子になったことで人生が開けた」という前向きな記事の返信欄は、肯定的な返信で埋まっており、多くの人がこの法律に対して好意的な印象を抱いているのは紛れもない事実のように思われた。


――でも。


 颯太の頭に、あの少女の言葉がよみがえる。


『飼う人間は飼われる人間を多額の金と引き換えに飼う。金で人間の尊厳や人権を買うんだ。飼われる人間に人権はないから、あとは飼い主の好き放題だよ』


 雨の中、陰部にローターを埋め込まれたまま街中の散策を命じられた少女。それを命じた中年男は、暖かい車の中から時折スイッチを押しては、彼女がびしょ濡れでもだえのたうつ様を眺めやる……。

 それはまさに鬼畜としか言いようのない所業であり、そんなことを命じることのできる中年男は確かに「飼い主」であり、その命令を聞かざるを得ないあの美少女は、確かに人権も尊厳もはく奪された「奴隷」にしか見えなかった。


 自分が目の当たりにした生々しい「現実」と、ネットの中にある小奇麗にわかりやすく整理された「現実」。その相違にどう折り合いをつければいいかわからず、颯太が再度小さなため息をついた時だった。


「なに溜息なんかついてんの?」


 目線を上げると、小首をかしげて自分を見下ろす、クリクリした大きな目が印象的なショートヘアの同級生女子、緑川葵と目があった。


「いや、ちょっとあることについて調べてたんだけど、いろいろ難しくてさ……」


「え、なに? 養子縁組……法律? なんで法律なんか調べてんの?」


「ちょっと知りたくてさ……でも、よくわかんないんだよね正直。緑川さ、この法律のこと、なにか聞いたことはある?」


 葵は「んー」と言いながら、しばらくの間中空に目を向けていたが、やがて「特にない、かな……」と呟いた。


「だよね……僕も昨日初めてそんな制度があるって知ってさ」


「颯太はアッパー階層だからね。なおさら知るわけがないよ」


 葵は困ったように笑ってから、声を潜めた。


「法律のことはよくわかんないけど、養子縁組制度にかかわってる子は、大きな声じゃ言えないけどこの学校には結構いるらしいよ。あたしも詳しくは知らないけど、この学校は公立だから、アンダー階層の子も多いし」


 「階層」の言葉に、颯太は眉をひそめた。


「やめなよ、アッパーとかアンダーとか……同じ人間じゃん。そういうの差別って言わない?」


「しょうがないじゃん、厳然たる事実なんだもん」


 葵は不満げに口先をとがらせると、颯太の額を人差し指でつついた。


「あんたはアッパーだからそういう余裕かませんの。あたしなんてミドルだから、結構生き残りに必死だし。アンダーなんて、生き残ろうにも這い上がれないから、半分世の中捨ててるんじゃん? というか、あんたみたいなアッパーが、こんな公立に通ってること自体があり得ないんだって。なんで私立に行かなかったの?」


 勢いに押されてあとじさりつつも、颯太は必死で反論する。


「いや、……だって、もうすぐ海外留学する予定だから。そんな短い期間に高い入学金を払うのもバカバカしいだろ。うちだってそこまで裕福ってわけじゃないし」


「海外留学するヤツに裕福じゃないとか言われたくないしー」


 あさっての方を向いてぼやいて見せてから、葵はクスッと笑って颯太に向き直った。


「でもさ、颯太は全然性格が嫌みじゃないから、ここでもやってけるんだよね。でなきゃ、やっかみとひがみでイジメ地獄だったかも。颯太がアッパーだなんて、幼馴染のあたしじゃなきゃ、気づかない人の方が多いかもよ」


 その言葉に、颯太が曖昧な笑みを浮かべて目線をそらした時、始業を告げるチャイムの音が高らかに鳴り響いた。

 教室にいた生徒はけだるそうな態度で席に着く。そのまま机に突っ伏して寝てしまうヤツ、さっそく携帯画面に没入するヤツ、イヤフォンをつけて音楽を聴き始めるヤツもいる。大多数の学生は、出席日数獲得のためだけに教室にいるのだ。というのも、規定日数以上出席しなければ、留年が確定してしまうからだ。


 生産の効率化により、就ける職業の数が大幅に減少した現在は、選択できる道が限られている。葵や颯太、その他数人の生徒を除く大多数が、志願兵として海外の戦地に出向くか、この国の主力産業である核廃棄物処理業につく以外の将来が望めない以上、学業に意欲がわかないのもむべなるかなと言わざるを得ない現実があった。


 教師もその辺りを心得ているが、無駄な強制もしない。学習をしようがしまいが、それは各生徒の「自己責任」だからだ。その価値観が浸透した今、ひと昔前のように必死で学習に導こうとする親切な教師は皆無になった。ただし、学習の明らかな邪魔となる行為は、一般社会と同じ法律で合理的に処理される。収拾のつかない事態になれば、警察が踏み込んでくることも当たり前になった。もっと治安の悪い地域の学校では、警官が発砲し撃たれた生徒が死ぬ騒ぎがあったが、それも警官の正当防衛ということで「合理的に」処理されている。この辺りはまだ治安のいい方なのでそこまでの騒ぎははないが、それでも「アッパー階層」の子女が集う学校に比べれば、授業の質はいいとは言えないレベルだった。


――そこまでの騒ぎはなくても、小さな不満はくすぶり続けてるんだけどね……。


 さきほどの葵の言葉を反芻はんすうしながら颯太が苦笑交じりの笑みを漏らした時、前扉が開いた。一時限目が始まるらしい。

 数学の教科書を机の中から取り出すと、退屈そうにパラパラとそれをめくって眺めやる。颯太も正直、ここでの授業にはあまり期待はしていない。入学金をケチった分親が家庭教師をつけてくれているおかげで、教科書の内容は既にある程度理解できている。彼にとって学校の授業は、その理解度を確認する程度の意味しかもたなかった。


「授業の前に、一人、転校生を紹介しますね」


 数学教師が、いつものボソボソと聞き取りにくい声で意外な事実をのたまい、教室にさざ波のようなざわめきが広がる。颯太は意外な思いで教科書から顔をあげ、黒板の前に立つ人物に目をやった。


――え?!


 その人物が視界に入った瞬間、颯太は凍り付いた。


「黒沢、琉生……るい、と読む。保護者の仕事の関係で、南校から転校になったそうだ」


 教師が黒板に名前を書きながらそういうと、その人物は小さく頭を下げた。動きにつれて、顔周りを縁取る茶色の髪が、まるでコマーシャルモデルのごとく一本一本独立してサラサラと揺れる。

 その人物は顔を上げ、ゆっくりと教室全体を見回していたが、颯太の存在に気づいたのだろう、少しだけ目を見開いて目線を止めた。自分に注がれる颯太の目線を正面から受け止め、それから、ふっとほほ笑んだ。

 スッと通った鼻筋に、なめらかな陶器のような白い肌。茶色いサラサラの顎くらいまでの髪に、琥珀色の睫毛の長い大きな瞳。花びらのような唇の端には、艶やかな笑みが浮かんでいる。

 そこに立っていたのはまさしく、昨日出会ったあのびしょぬれの美少女に違いなかった。

 ……ただ、一つだけ違っていたのは。


「黒沢琉生です。よろしくお願いします」


「黒沢くんの席は、……あそこが空いてるね、真白くんの隣。真白くん、彼にいろいろ教えてあげるように」


 そう。ただ一つ、颯太の見立てが違っていたのは。

 「彼」が、男だったということだ。

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