1-2

「……買う?」


 颯太は思わず一歩後退った。


 確かに富裕層の中には、貧困層から引き取った子どもを養育する人がいることを颯太も知っている。しかも、その多くが先ごろで来た新しい法律に基づき、普通の養子縁組ではなく、多額の金を支払い子どもを買い取ると聞いた。

 それを要求されているのだとしたら、颯太にそんなことは不可能だ。買取の金額は非常に高額と聞く。それなりの富裕層の子息である颯太といえど、さすがに何とかなる金額ではないだろう。


 と、美少女は唇の端に薄い笑みを浮かべながら、小さく首を横に振った。


「飼うの」


「え?」


「飼うんだよ、犬や猫みたいにね」


 言いかけた言葉を呑みこんで固まる颯太を見て、美少女はさもおかしいとでも言いたげに肩をすくめて笑うと、冷たく鋭い視線で睨み上げるように颯太を見た。


「知らないの? 世の中にはね、飼われる人間と飼う人間がいるんだよ」


「……」


「飼う人間は、飼われる人間を多額の金で買う。金で人間の尊厳や人権を買うんだ。飼われる人間は人権を売ったんだから、あとは飼い主の好き放題だよ。どんな羞恥プレイだって文句も言わずにやるし、虐待や暴力だって黙って受ける。なんだって、飼い主の好きなようにしていいんだよ」


「そんな、バカな……憲法には、基本的人権があるのに」


 何を言っていいのかわからず、とりあえず学校の教室で習ったうろ覚えの知識で反論を試みる。


「憲法なんて、とっくの昔に形骸化されちゃったじゃない」


 颯太の反論を歯牙にもかけない様子で流すと、美少女は首に絡めていた両手を外し、颯太の頬にその手のひらをあてがって、眼前十センチの距離にまで颯太の顔を自分に引き寄せた。そうして、琥珀色の瞳で見透かすように颯太を見つめながら、低い声で言葉を継ぐ。


「あの悪法ができてからは、弱者の人権を保障してくれるものは何もないよ。ただまあ、その前からないに等しかったって言えば、そうなんだけどね」


「悪法……?」


「養子縁組基本法。だけどまあ、そんなことはどうでもいいよ。とりあえず、僕を飼ってよ。そのくらいのカネ、あんたらにとっちゃ安いもんなんでしょ。ねえ、芦原銀行支店長の息子さん」


 颯太の背筋にぞくっと寒気が走った。


 確かに颯太の父親は芦原銀行に勤めている。今は本部長という役職だが、数年前は確か、支店長を務めていた。そんな個人情報を知っているということは、この家の門扉脇に座っていたのは単なる偶然ではなく、何かしらの目的があっての行動ということになる。それがいったい何なのかは颯太にはわからなかったが、こんな雨の中で、びしょ濡れになって座っていたことからしても、まともな目的とは到底思えなかった。


「なんで、そんな……」


 言いかけて、慌てて言葉を呑みこんだ。不用意な発言をすれば、彼女に余計な情報を与えることになってしまうからだ。唇を引き結んだ颯太の様子に何を感じたのだろう、美少女は唇の端に、どこか満足げな笑みを浮かべた。


「……怖いの?」


 凍るような視線を突き刺したまま、頬に添えた手の親指で颯太の唇をゆっくりとなぞる。


「怖いのは、あんたたちの方じゃん……あんたたち富裕層は、無意識に、無自覚に、毎日誰かを殺してるのに」


「殺すって……」


 心臓が縮み上がるような感覚に必死で耐えながら、颯太が彼女の言葉をした反芻はんすうした時だった。


「あっ……」


 突然、美少女が雷にでもうたれたかのように全身を震わせ、小さく叫んだ。

 颯太の頬に添えていた手を外すと、震えながら自分の肩を抱くような格好で体を丸め、よろよろと一歩あとじさり、雨にうたれながらしゃがみ込む。 


「え……?」


 意味が分からず戸惑いながらも、病的な変調かと思った颯太は、おずおずと腰をかがめて彼女の表情を窺い見た。

 美少女は白かった頬を薔薇色に染め、潤んだ目で道路の一点を見つめながら、肩を揺らして荒い呼吸を繰り返している。


「あの、どうし……」


「こんなところにいたのか」


 突然、背後から響いてきた深みのあるバリトンに、颯太はドキリとして呼吸を止めた。

 恐る恐る振り返った颯太の視界に、背の高い中年男の姿が映りこんだ。ネイビージャケットにグレーのインナー、この悪天候をものともしないホワイトチノに、この悪天候にまるっきり必要のない濃いグラサン、背後には彼の物と思われる真っ赤なポルシェが鎮座ましましている。美少女に気をとられていたせいだろう、車が止まったことにすら全く気付いていなかった颯太は、そのおしゃれなのかそうでないのか即座に判別の付き難い中年男を、思わずまじまじと見つめてしまった。


 中年男は、颯太の無遠慮な視線に鼻白んだような表情を浮かべたが、すぐに目線を美少女に戻すと抑揚なく言葉を継いだ。


「こんなところに行けと言った覚えはないぞ」


「……あれ、そうでしたっけ」


 美少女は荒い息の間から言葉を返すと、口の端に皮肉っぽい笑みを浮かべたようだった。腹のあたりを押さえるような格好のまま、震える両足に力を込めてよろよろと立ち上がる。


「あのときは、ただこのまま歩けと仰っただけで……あぅっ」


 美少女はまたもびくりと体を震わせて息を呑んだ。黒いジーンズに包まれた太ももをガクガクと震わせながら、ともすると崩れ落ちそうになる上半身を必死の形相で支える。


「私は車なんだぞ。大通りを歩くのは当然だろう? いきなり路地に入って姿をくらましたあげく、ようやく見つけたと思ったら、こんなところでこんな男と何をなれなれしく……」


 中年男は、どうやら右手に握る何かのスイッチを操作しているらしかった。男がスイッチに手を触れるたび、びしょ濡れの美少女は全身を波打たせてもだえ、喘ぐ。何が行われているのかようやく察しがついたのだろう、颯太はあぜんとした表情で中年男と美少女を見つめた。


 美少女は口の端から涎の糸を垂らしながら、懇願するような目で中年男を見上げた。


「ようやく、見つけたって……あんっ、……すぐ、わかるでしょ? ……んん……マイクロチップには、はあ……GPSが、ついてる……」


「車で通れない道をわざわざ選んだとしか思えないルートだったな。とにかく、こういうかくれんぼはもうこれっきりにしてもらおう。でなければ……」


「あぁっ! はあん……」


 美少女が高い声をあげて悶絶する。意志とはかかわりなく盛り上がってくるモノの感触を覚え、颯太は慌てて手にしていた通学カバンで前を隠した。

 中年男はそんな颯太をチラリと横目で眺めやった。


「……こいつがあんたに何を言ったのか知らんが、見ての通りこいつは俺の持ち物だ。コイツが欲しければ、俺が飽きてコイツを売りに出した時を狙うんだな。ただし、値段は相当張るだろうがな」


 本当に犬か猫、もしくはそれ以下のような物言いで美少女の所有権を主張する中年男の態度に、颯太はゾッとしつつも、何と言葉を返せばいいかわからなかった。戸惑いつつ、自分の体を抱くようにして震えている美少女の表情を窺い見る。美少女は喘ぎながら俯いていたが、颯太の視線を感じたのだろうか、ちらりと目線を上げると、唇の端で笑ったようだった。


「行くぞ。車まで歩け」


 中年男は言い捨てると、踵を返し、ポルシェの方へ歩き始めた。美少女はその後を追って震える足を踏み出したが、体の奥に差し込まれたそれが不規則にうごめくたび、荒い息の間から小さな叫び声をあげては足を止めた。颯太の隣を通り過ぎる時も快感に貫かれたのだろう、息を呑んで足を止めたが、彼女が再び颯太の顔を見ることはなかった。


 美少女が覚束ない足取りでポルシェに乗り込むと、中年男はエンジンをかけた。ポルシェは特有の気持のよいエンジン音をどこか得意げに響かせながら、いつの間にかすっかり闇に包まれた静かな住宅街の道を走り去った。

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