たんぽぽ
にゃ
1.白
1-1
それに気が付いたのは、自宅へ続く静かな路地に入ってすぐだった。
颯太は最初、それが何だかわからなかった。布の塊のようにも見えたので、洗濯物か何かかと思った。が、歩みを進めるうち、植え込みの間に挟まるようにしてわだかまるその塊の端から、裸足のつま先がのぞいているのに気がついた颯太は、どきりとして足を止めた。
――人間?
傘の柄を握りなおすと、注意深くその物体を凝視する。
距離があるのでわかりにくいが、それは確かに人間のようだった。どうやら、パーカーのフードを目深にかぶり、顔を膝にうずめて座っているようだ。フードも、膝を抱えた腕も、黒っぽいジーンズらしき布に包まれた足も、霧雨にじっとりと濡れそぼっている。相当長い間、そこにそうして座っているらしい。
颯太は当惑した。もっと南の治安の悪い地域なら、そう珍しいことではないのかもしれない。だが、この辺りは高額所得者の集う治安のいい地域だ。モダンで広い家々の庭は隅々まで手入れが行き届き、道にもゴミひとつ落ちていない。ましてや、びしょ濡れの人間が道端に落ちていることなど、当然のことながら今まで一度も遭遇したことのない事態だったのだ。
できれば、そのまま立ち去ってしまいたかった。見るからに怪しすぎる人物だ。金の無心をされるかもしれない。さわらぬ神に祟りなし、面倒ごとは無視するのが一番安全なことくらい、十七年に満たない彼の未熟な経験でも、十分に体得できることだった。
颯太は呼吸を整えると、荷物を持つ手に力をこめ、意を決したように「その人物の方に向かって」足を踏み出した。
突如として福祉精神に目覚めた……などというわけではない。無視して立ち去りたいのはやまやまだが、彼にはそちらに向かわねばならない理由があった。その人物が膝を抱えてうずくまっているのが、運の悪いことに颯太の自宅の前だったからだ。
幸い、その人物は颯太が近づいても、膝に顔をうずめたきり動かないでいる。そっと入れば、関わりを持たずにすむかもしれない。足音を忍ばせて門扉の前に立つと、颯太はふるえる指で電子錠にパスワードを打ち込み、エンターキーを押した。
開錠を告げる甲高い電子音が予想以上の鋭さで鼓膜を貫き、全身の毛が逆立つような感覚に襲われた颯太は、目だけを動かして門扉脇をうかがい見た。幸い、その人物は微動だにせずそこにうずくまっているだけだ。ホッと小さく息をつくと、門扉をそっと引き開ける。
黒い鉄の門扉が、軋みとは無縁のなめらかさで移動を開始する。行き届いたメンテナンスに感謝しつつ、颯太が幾分ほっとしながら、敷地内へ足を踏み入れようとした、その時。
視界の端で、フードに包まれた頭部が動いた。
颯太はゾッとして、思わず足を止めてしまった。
目だけを動かして恐る恐るそちらを見やると、その人物は、膝にうずめていた頭をゆっくりともたげ始めていた。
――ヤバい。話しかけられるかもしれない。
颯太の背筋を、悪寒が一気に駆け抜けた。こんな雨の中、こんな場所に、こんな格好でうずくまっている人間が、まともで善良な一般市民であるわけがない。犯罪に巻き込まれる可能性すらある。
――大丈夫、敷地内に飛び込で、速攻で門扉を閉じればいい。敷地内に一歩でも足を踏み入れたら、不法侵入で警備会社に通報がいく。
呼吸を整えた颯太が、門の中に足を踏み入れようとした時。
その人物が、振り仰ぐようにして颯太の方に顔を向けた。
――え?
その顔を視界にとらえた瞬間。颯太のほぼすべての身体機能が一瞬で停止した。
中世の彫刻のような、すらりと通った鼻筋と形の良い唇。透き通るように白くなめらかな肌に、細い首と
そこに座っていたのは、颯太の予想を見事なまでに裏切る、美少女という三文字以外では表現のしようがない人物だったのだ。シチュエーションからホームレス風の中年を想像していただけに、拍子抜けした気分に襲われた颯太は、しばらくの間ぼうぜんとその端正な顔を見つめてしまった。
と、何を思ったのだろう。美少女は唇の端に薄い笑みを浮かべながら、無言で立ち上がった。
背の高さは、百七十センチの颯太より幾分低いくらいだろうか。軽く見上げるような姿勢でとがった顎を上げ、彼女はその花びらのような唇に
思いがけない行動にドキリして、思わず一歩後じさった颯太に構うこともなく、美少女はそのすらりとした腕を強引に颯太の両肩に載せ、彼の首を抱え込むようにして自分に引き寄せると、眼前数十センチでほほ笑むその端正な顔に息を呑む颯太に、あでやかな、それでいてこころなしか鋭い目線を投げかけた。
「あんた……ボクに興味、あるの?」
外見からは想像もつかない、円熟した色気の漂うハスキーボイス。意外な一人称に不意を突かれて、しようとした返事を思わずのみこんでしまった颯太にかまわず、美少女は言葉をつづけた。
「じゃあさ……」
必然的に至近距離で見つめあいながらも、びしょ濡れの美少女はその美しい瞳でまっすぐに颯太を見つめたまま、絡めた腕を颯太の首にさらに強く巻き付け、耳元に口を寄せて、甘えるような調子でささやいた。
「……ボクを、飼ってよ」
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