第3話 現実の世界

 朝ごはんにはクロワッサンとリンゴが並ぶ。サクッと音を立てる香ばしいバター。ミルク多めのカフェラテ。優しいお母さんと、温厚なお父さん。一流大学に入って一人暮らしをしている自慢の兄貴に、かわいいラブラドールレトリーバーのエル。今度の中間試験に不安はあるけど、なんだかんだで楽しい毎日。


 学校に行けば友達の直美と、仲良しグループのみんながいて、隣のクラスには憧れの男の子もいる。


 完璧な毎日。


 だけど私には、今より前の記憶がない。


 小学校の時何してた? 中学生の頃はどんなテレビ番組が好きだった? いつ誰のことを好きだった?


 完璧に思える毎日にふと潜む疑問。

 私に記憶障害があることを、誰も知らない。誰も気が付かない。

 過去のことを誰も聞いてこない。過去の話を誰もしない。


 どこかが曲がった奇妙な世界。

 ここが、私の現実。



***



 私は毎日、とある特別病棟へ行く。

 そこに眠るお姫様に朝、昼、夜と点滴を打つ。点滴を打つ時間は指示される。


 お姫様はご飯が食べられない。というか、何もできない。

 手も足も動かせない。口も動かせない。話すこともできない。でも、お姫様は生きている。楽しい楽しい夢を見ながら。


 彼女の脳はあるシステムと繋がれていて、その中で現実世界を生きているらしい。私はその手の話には詳しくない。

 だけどバーチャルリアリティ空間でゲームを楽しめる時代だ。仮想空間を現実として生きることも可能なのだろう。


 最初の頃は彼女のお兄さんと称する人が病室を訪れていたけれど、一ミリも変わらず寝たままの彼女に悲しい顔を浮かべるようになってからは、ほとんど姿を見せなくなった。


 そのお兄さんこそが、彼女の脳と繋がっているそのシステムを作った張本人だという噂があるが、本当のところはどうだかわからない。あまり興味もないし。私のこの他者への興味のなさが、この仕事を任されている要因の一つだということは、なんとなくわかっている。


 これが、私の現実。


***



 奇妙な違和感を胸にリンゴを齧る。


 私は幸せなのだろうか。「なんだかんだで楽しい毎日」は、本当に存在するのだろうか。違和感の拭えない、この嘘くさい現実を、私はただ息をして過ごしているだけじゃないのか。


 願いは叶うわけではない。運がいいとも思えない。だけど、この世界は私を中心に回っているような気がしてならない。


 私は将来、何になるのだろう。何ができるのだろう。漠然とした不安が襲う。


 叫びだしたくなる不安を胸に、大好きなリンゴを齧る。



***



 お姫様は幸せなのだろうか。

 どんな夢をみているのか知らないけれど、誰かによって考えられた世界の中で生きていて、彼女は幸せなのだろうか。


 というか私こそ、誰かの夢の中で生きているのではないだろうか。毎日病院に来て病人の世話をしていると思っているのは私だけで、本当は私が病人なのではないだろうか。


 彼女を見ていると不思議な気分にさせられる。


 私は、この現実なのか夢なのかわからない世界で生きていて、幸せなのだろうか。ここがゲームの世界のように単純だったら幸せなのだろうか。人はどうしたら幸せになれるのだろうか。


 彼女の額を拭ってやる。お姫様はこの頃しょっちゅう汗をかく。拭いながら、幸せについて考える。


 彼女は夢の中を生きているけれど、それでも彼女は、現実世界の私と同じ悩みを持っているような気がしてならない。


 彼女は幸せなのだろうか。私は幸せなのだろうか。

 夢を生きているのは、どちらなのだろうか。

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