前夜

 後輩が我が家にやってきたのは、ちょうど美里さんと入れ替わるように、彼女の帰ったすぐ後のことだった。


「先輩ただいまー腹減ったー。今日の夕飯なにー?」

「せめてお邪魔しますと言えんのかお前は」


 遠慮も手加減もなく、ピンポンピンポンと連打される呼び鈴にげんなりしながら玄関の鍵を開けると、そこに立っていたのは見慣れた顔の後輩だった。


 よくよく考えてみれば言っていることはほぼ百瀬と変わらないはずなのに、言っている相手が違うだけでこんなにも腹が立つものなのか。しかし考えてみれば片や可愛い四歳児、片やその四歳児と似ているとはいえ二十五歳の男である。そもそも比較になるわけがない。


 兄のようやくの登場に、テレビを見ながら留守番していた百瀬がパッと顔を明るくして飛びついた。


「ちーちゃん!おかーりー!」

「ただいまー、モモ!いやー、まいったまいった。予定より帰り遅くなっちゃうし、帰ったら帰ったで部屋に誰もいねーし。つーか、なんで先輩の家にいるの?美里さんは?」

「お前が遅いから先に帰ったよ。ちょうどタッチの差だったけどな。夕飯のビビンバがもうすぐできるから、さっさと手を洗ってこい」


 しっしと邪険に追い払いながら告げると、後輩はきらりと目を輝かせた。


「まっじで!?じゃあ俺、今日は丼で食べる!」

「お前、遠慮っていう日本語知ってる?」

「やったー。牛肉食べるの久しぶりー。先輩の家の飯って、美味いけど鶏とか豚ばっかで牛肉は滅多に出てこないんだもん」

「お前、失礼っていう日本語知ってる?」


 確かに我が家では、豚や鶏に比べて牛肉の出てくる機会は少ない。なんと言っても値段が倍以上違うので仕方ない。なのでビビンバは、たまの安売りの時に牛肉を買い溜めした時にだけ出てくるレアメニューだ。


 作り方は極めて簡単で、まずお湯を沸かしてモヤシ・人参・ほうれん草の順に湯がいていく。この時、俺は野菜を入れたザルごと茹でるようにしている。そうすると、いちいち水を張り直さなくても、同じお湯で数種類の野菜を湯がくことができるからだ。


 最初のモヤシは一度入れて、再度沸騰するまで。二番目の人参はスライサーで千切りにしてから二分くらい。ほうれん草はシュウ酸が出るので最後に三十秒ほど湯がく。あとはそれぞれ水気を切ったらごま油と塩少々で和えれば完成だ。


 俺が一人でせっせと作業をしていると、後輩が声をかけてきた。


「せんぱーい。皿は全部並べ終わりましたけど、他になんかすることあります? 俺、結構腹減ってますけど」

「聞いてねえよなんだよそのアピール。ムカつくな」


 人の家に食事をたかりに来て、ここまで家主の神経を逆撫でする奴も逆に珍しい。しかし、わざわざアピールしてくる以上、腹が減っているのは本当だろう。そういえばさっきも丼で食べるとかぬかしていたし、ひょっとしてビビンバだけでは足りないかもしれない。俺は冷蔵庫の在庫を思い浮かべながら、今あるストックで作れそうなメニューをざっと脳内検索した。


「そうだな……ビビンバだけじゃ寂しいし、せっかくだからチヂミでも焼くか。俺が焼くから、お前らで汁物担当な」

「おっしゃ、チヂミ大好き!よーしモモ、俺たちの出番だ」

「でばんだー!」


 兄の呼び声に、妹が張り切って現れた。


 いつぞやの宣言以来、頻繁に(本当に頻繁に)我が家に通いながら味噌汁を作り続けた結果、この兄妹たちの料理レベルはかなり上がっている。正確には、上がっているのは汁物作りのレベルだけだが、汁物に限っていえばもう俺の助言がなくとも作れるほどだ。


 以前は初手で紫キャベツ味噌汁というアクロバティックな王手をかましてくれた後輩だが、汁物というのは慣れれてしまえば本当に簡単なのである。


「えーっと先輩、ビビンバって何入ります?」

「モヤシと人参とほうれん草。あと温玉の代わりに錦糸卵と牛肉。お前の場合は、好みで白菜のキムチもある」

「てことは、葉っぱ系と卵は具がかぶるから避けるか。よしモモ。今日は豆腐とネギとワカメで中華スープを作るぞ!」

「おー!」


 毎回のことなのに、なぜかやたら張り切る足立兄妹である。


「ねー、せんぱーい。ネギと豆腐貰っていい?」

「あー、好きに使え」


 俺が許可すると、兄妹たちは仲良く共同作業を始めた。


 兄の方が冷蔵庫から取り出した長ネギをみじん切りにする横で、妹がちょこちょこと豆腐を賽の目切りにしている。豆腐を切るのは百瀬専用の仕事だ。多少崩れても被害が少ないので。


 真剣な顔で豆腐を向き合う妹の横に、後輩はみじん切りにしたネギをさっとごま油で炒めた。この一手間を加えるだけで、ネギとごま油の香りがぐっと引き立つのである。


 あとはそこに水と顆粒の鶏ガラを注ぎ、乾燥ワカメと豆腐を入れて、塩醤油砂糖で味を整えるだけ。実にシンプルだ。


 強いてコツを言うなら、調味料を入れる時は一度にドバッと入れず少しずつ加えることだろうか。味が薄いだけなら、あとからリカバリーが効くので。


 スープがあっという間に完成するので、俺ももたもたしていられない。ザク切りしたニラと卵、小麦粉、片栗粉、塩と水、ついでに先程作ったナムル用の人参と冷凍してあるピザ用チーズを少々加えて、よく混ぜたら油をしいたフライパンに、じゅっと生地を流し込む。


 お好み焼きやチヂミの様な粉物は、弱火でちまちまと焼くより強気にがっと焼いた方がいい。その分、焦げやすくなるので注意が必要だが。


 フライパンに残った油がもったいないので、そのまま薄焼き卵と肉を焼く。軽く焼き目がついたら砂糖味醂醤油で少し濃い目に味付けをし、タレの水分が飛ぶまで煮詰めたら完成だ。あとはこれを綺麗に盛り付けていくだけである。


 炊き上がった米の上に、炒めた牛肉、錦糸卵の鮮やかな黄色、そして緑のほうれん草と、その横に白いモヤシのナムルと人参を順に乗せていく。大皿に焼き上がったチヂミを乗せ、最後に胡麻を散らした中華スープをつければ夕飯の出来上がりだ。


 三人前の夕飯をテーブルに並べると、足立兄妹たちが嬉しそうにハイタッチをした。


  ◆ ◆ ◆


 いつも通り、三人で手を合わせていただきますをしてから、早速パクリと一口。


 ビビンバの偉いところは、なんといっても肉と野菜がバランスよく取れるところだ。ちょっと濃い目に仕上げた牛肉のおかげで、単品だと嫌煙されがちなほうれん草や人参も箸が進むし、甘辛の牛肉とあっさりとしたモヤシの相性の良さは抜群だ。


 こんがりと焼けたチヂミは中のチーズが溶け出して、表面はカリカリ中はもっちりに仕上がっている。油を多めに使って揚げ焼きにしているので、ここはあっさりとポン酢でいただきたいところだが、すだち富豪たる我が家は一味違う。


 自家製のすだちポン酢を使うのだ。


 自家製と言っても、絞ったすだち果汁に醤油と煮切った味醂とパックの鰹節をぶっこむだけだ。冗談のように簡単だが冗談のように美味い。さっぱりした酸味にすだちの爽やかさがプラスされて、市販のポン酢とは格段に味が違う。


 カリカリに焼いたチーズとニラのチヂミを、さっぱりとしたすだちポン酢につけて食べ、とどめにビールを飲む。最強だ。ニラの食べ方として、これ以上ない最強の食べ方である。


 俺がこの世の至福をしみじみ堪能していると、百瀬が瞳をキラキラさせて聞いてきた。


「ねー、とおるくん。今日のごはんで、何がいちばんおいしい?」


 個人的にはビビンバよりやはりチヂミに軍配を上げたいところだが。俺はうーんと一旦悩みながら、


「そうだなぁ……久しぶりのビビンバも美味いし、チヂミも美味いけど……一番となると、やっぱこのスープの豆腐かな」

「ほんとう!?それねー、じつはねー、モモが切ったんだよ。すごいでしょー」


 知ってる。毎回聞かされてるので物凄く知ってる。しかし俺は、あたかもその事実を初めて聞かされたように驚いた。


「本当か?すごいな百瀬は。まだ四歳なのに、こんなに上手に料理ができるなんて」

「えへへへへへぇ〜」

「先輩、俺も俺も。俺も一緒に作りましたよモモと」

「うるせぇよ知ってるよだからなんだよお前」


 へにょへにょと照れ笑いをする四歳児の横で、なぜかドヤ顔でアピールしてくる二十五歳児を切り捨てる。なぜ四歳児と同じ立場で褒められようとしているのはこいつは。というかそれ以前に──


「おいお前、今日食べる前にうがいしてねぇだろ。うちで飯食う時はいつも手洗いうがいはしろって言ってあんだろうが」

「もう食べちゃった」


 はっと気づいて注意する俺に、後輩はチヂミを口に運びながら悪びれもせずに言った。


 スープを作る前に手は洗っていたようだが、うがいはしていない。今の季節はただでさえ風邪が流行っているというのに。


「まー、大丈夫っすよ。そんな気にしなくても。俺、昔から風邪とかあんまひかないし」

「そうじゃねぇよ。妹に手洗いうがいをしろっつってる以上、兄貴のお前がちゃんとやってないと示しがつかねぇだろうが」


 ちっ、と思わず舌打ちをする。正直、後輩が風邪をひこうがインフルになろうが俺の知ったことではないが、大人がきちんとやっていないことを子供にやらせるのは、ダブスタでずるいと思うのだ。


 後輩は特に反省した様子もなくヘイヘイと頷き、結局その晩は食べ終わってすぐに解散した。

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