意地っ張りポトフ
渋皮煮と再会
俺が『彼女』に再会したのは、あの飲み会の夜から三ヶ月ほど経ったある日のことだった。
あの頃はまだ夏と秋の狭間だったのに、今やすっかり世間は冬一色だ。俺は四季のうちでは秋が一番好きだが、寒さの厳しい冬だってそれほど嫌いじゃない。寒い時期には、温かい料理が殊更に美味しく感じられるものだ。おでんにシチュー、ラーメンに鍋物。暑い時にだらだらと汗を流しながら作るのは面倒だが、冬は料理をするだけで暖房代わりにもなるし湿度も上がるしちょうどいい。
そうだ、せっかくだから今週末はあの兄妹たちを呼んで鍋にでもするか。
いつぞやの味噌汁宣言以来、あの兄妹たちは本当にちょくちょく我が家にやってくる。あまりに頻繁にやってくるので、そろそろ合鍵でも渡してやろうかと思うほどだ。一人暮らしだと鍋料理を食べる機会はあまりないが、三人ならばちょうどいい。よし、ならば今度の買い物で白菜を大玉で買っておくか──などと考えながら、帰路についていたときのことである。
ふと顔を上げた俺は、マンションの前で所在なさげに佇む人影に気づいた。一つは見知った小さなもの。百瀬だ。しかしその隣に立つのは彼女と瓜二つの兄ではなく、見知らぬ女性だった。長い黒髪をキュッと高い位置で一つに結び、ぴったりとしたスキニータイプのジーンズに、ファーのついた短めのジャケットを羽織っている。否、見知らぬわけではない。以前、一度だけ見覚えがある。あれは確か──
「あー!とおるくん、みーっけ!」
「うお」
俺が記憶を呼び起こすより先に、こちらに気づいた百瀬が勢いよく突進してきた。膝から下に的確なタックルを喰らい、思わずバランスを崩しそうになる。
「とおるくーん!さむいさむいさむい、さむいよー!」
「だったら早く中に入りゃいいじゃねーか。なんで入り口なんかに突っ立ってんだ。ていうか、お前の兄貴はどこにいる?」
百瀬は俺の膝にしがみついたまま、顔だけをぐりんとこちらに向けた。
「ちーちゃん、今日はお仕事で遅いんだって。だから、今日はみーちゃんがお迎えなの。でもみーちゃんが鍵忘れたから、おうちに入れないの」
みーちゃん。そうだ。あの飲み会の夜、初めて後輩の部屋に行った時に百瀬と留守番をしていた女性だ。確か名前は『ミサト』さん。
ついでに状況も理解する。うちのマンションのオートロックは暗証番号タイプではなくリアルキーが必要だ。つまり彼女たちは現在、家に帰りたくても帰れずに困っていたのだろう。ちょうどその時、見知らぬ女性改めて『ミサト』さんが駆けつけてきた。
「こぉらモモ!勝手にどっか行くんじゃない!他所の人にいきなり突進したりして、危ないだろ──」
百瀬を捕まえようとした彼女が、こちらを見ておや?という顔をする。以前、名刺を渡したことはあるが、あちらも名前までは覚えていないのだろう。どうしようかと一瞬迷ったが、足立兄妹の顔見知りということもあり、ポケットからマンションの鍵を出しながら、俺はさほど考えずに提案した。
「あの……もしよかったら、鍵開けますんで一緒に中に入りますか?」
突然の来客というのは、実は結構困るものである。
なぜかというと単純な話、部屋が散らかっているからだ。さすがにいつぞやの後輩ほどではないとはいえ(最初の時以来、俺はあの兄妹の部屋に一度も訪れていない。逆は何度もあるが)俺も男の一人暮らし。そういつも部屋を掃除しているわけではない。足立兄妹が我が家に来るようになってからはそこそこ綺麗にしていたが、最近では逆にあまりに頻繁に来すぎるせいで掃除をしなくなってきている。
一応、百瀬に見つからないように独身男性御用達の雑誌などは隠してあるが。ほぼ初対面ともいえる女性を招けるほどに綺麗とは言い難い。
それでも俺が二人を招待せざるを得なかったのは、件の女性がなんとマンションの鍵だけではなく後輩の部屋の鍵まで忘れていることが発覚したからだ。彼女の名は
「とおるくんおなかすいたー。今日のおゆはんは?」
「んー、牛コマを解凍してあるからビビンバにする予定」
「ばびびん!」
「ビビンバ。すぐに作るから、先に手洗いとうがい済ませておけ。お湯使っていいから、ちゃんと石鹸使ってよく洗うんだぞ」
「はーい」
元気に良い子の返事をして、勝手知ったるとばかりにてこてこと洗面所に向かっていく百瀬を、美里さんがなぜだかものすごく不思議そうに見つめていた。
「……なんでモモがこの家の夕飯を聞くの?」
「え? ああ、ほら。見ての通りうちは近所なんで、足立のところとは、たまに一緒に夕飯を食べたりしてるんですよ」
そう。ごくたまに。だいたい、週に四、五日くらいのペースとかでたまに。
彼女はそこはかとなく納得しがたい顔をしていたが「そう……」とだけ頷き、それ以上は突っ込んでこなかった。
「それより、よかったら何か飲みますか。ええと、飲み物は──」
しまった。客人にはできるだけ好みに合ったものを提供したいというのが俺の信念だが、この美里さんとはほぼ初対面。当然、好みなど分からない。仕方ないので、思いつくまま聞いた。
「珈琲、紅茶、ほうじ茶、緑茶、麦茶の中からどれでもお好きなものをお選びください。カフェインレスがお好みなら、珈琲と紅茶はデカフェのものが。牛乳もあるのでミルクティーかカフェオレがよければそちらでも」
「カフェなの?」
面倒なのでありったけ聞いただけなのだが、なぜかものすごく不思議そうな顔をされた。
結局、じゃあほうじ茶をと遠慮がちに言われたのでキッチンへ向かう。お茶だけ出すのもなんとなく寂しいが、四歳児ならばともかく妙齢の女性に喜ばれそうなシャレオツな菓子などうちにはない。というかそもそも、若い女性が何を食べれば喜ぶのかが分からない。悩んだ末に俺は、先週末に作った栗の渋皮煮をお茶請けとして添えることにした。
ころんとしたフォルムの丸々とした栗を小皿に盛り付けてお茶と一緒に出すと、彼女がキョトンと目を丸くする。
「えっと、これは……?」
「先日うちで作った栗の渋皮煮です。よかったらどうぞ」
「どうも……」
渋皮煮は作るのが少し手間だが、俺のような素人が作ってもまず失敗しないのでポイントが高い。硬い鬼皮を剥いてしまいさえすれば、基本的には茹でこぼして灰汁をのぞきたっぷりの蜜で煮るだけだ。その上、煮沸常温でも一ヶ月は保存が可能なので、秋になると毎年作っている。
特に今回は、栗と一緒にアールグレイの茶葉を加えて煮込んだ自信作だったが、なぜか彼女は理解しがたいものを眺める眼差しで艶々とした栗を見つめていた。珍しいのだろうか。栗の渋皮煮。
俺たちの間に若干微妙な空気が落ちかけたところに、てちてちと救世主が現れた。
「あー、みーちゃんだけずるい!とおるくん、モモも。モモも!」
手洗いをうがいを済ませた百瀬がさっそく渋皮煮に目をつけた。
「ちょっ……こら、百瀬!そんな他所様のお宅で……」
「お前は夕飯前だからやめとけ。ご飯後のデザートに出してやるから」
「えー。じゃあジュースのむ」
「まあそれならいいよ。一杯だけな」
許可すると、百瀬はわーいと歓声をあげて冷蔵庫に向かった。ジュースというのは、俺が作っているすだちの砂糖漬けのことだ。毎年、夏の終わり頃になると徳島の友人から大量のすだちを貰うため自作している。洗ったすだちを輪切りにして同量の砂糖と一緒に煮沸消毒した瓶に詰めるだけという簡単さだが、簡単な割に実に美味い。この溶け出したすだちシロップを薄めて飲むのが、最近の百瀬のお気に入りなのだ。
都内で買うと一個八十円くらいするすだちなので、段ボール箱一杯に貰った時はホクホクしたものだ。果汁は絞ればそのままお酢の代わりとして料理にも使えるし、酒に入れてもいい。砂糖ではなくホワイトリカーで漬ければライム酒のような味わいになるし、冷凍保存までできる。すだちの可能性は無限だ。
子供用の小さなカップに並々とすだちジュースを注ぎ、ほくほく顔でリビングに戻ってきた百瀬を、美里さんが何やら物凄く不可解そうな眼差しで見つめていたが。その視線に気付いた百瀬が、何を勘違いしたのかニッコリと笑う。
「みーちゃんにもあげる。とおるくんの作ったジュース、おいしいよ」
「……この家って、ジュースまで手作りしてるの?」
こちらを見つめる美里さんの目つきが、なぜか驚きを通り越して若干引いているようにさえ見えたが誤解しないでほしい。俺はそこまでマメな人間ではない。
「ジュースといっても、ただのすだちの砂糖漬けですよ。徳島の友人から大量に貰うんで作ってるだけです。自宅で梅酒作るのと大差ありません」
「いや、そんな当然ですみたいな顔で言われても、まず自宅で梅酒を作ってる人を見たことないんだけど……」
「あれ?」
ごく一般的な例をあげて自分の普通さを説明しようと思ったら、逆に説得力が薄くなってしまった。
マジか。自宅で作らないのか梅酒。それともこれがジェネレーションギャップというやつか。最近の若い者との相違に俺が密かに悩んでいると、彼女がクスリと笑う。
「……でも少し安心したかな。モモの近くにあんたみたいな面倒みのいいお節介がいるって分かってさ。実の兄貴とはいえ、千早の奴は見た目の割に色々と雑だからね……モモは女の子だし、あいつ一人で育てるのは正直無理だと思ってたんだ」
「いや、そんなことないと思いますよ。あいつは確かに雑ですけど、少なくとも百瀬のことだけはきちんとやってると思います」
俺がきっぱりとそう言うと、彼女は少しだけ意外そうな表情を浮かべた。
だが事実だ。確かに後輩の部屋は、控えめに言って足を踏み入れることが躊躇われるぐらい暗黒汚染地帯だが、少なくとも俺は百瀬が汚れた服を着ているところを一度も見たことがない。髪の毛だっていつも綺麗に結われている。
男である後輩は、きっとそれまで髪の毛を結うなんてしたことはなかったはずだ。俺も四つ子の髪を弄ったことがあるが、子供の髪は大人のものとは違い細くてさらさらで扱いづらい。おまけに整髪料でガチガチにするわけにもいかないので、すぐに解けてしまうのだ。だけど、百瀬の髪の毛はいつ見てもきちんと丁寧に結われている。
身嗜みだけでなく食事に関しても。確かにあの後輩は仕事は優秀でも生活全般がとにかく雑だし、片付け一つロクにできないがそれでも。
あの後輩が、あいつなりに一生懸命、妹の面倒を見ていることだけは多分間違いない。
たとえその結果がどうあれ、当事者でもない俺たちがその努力にケチをつけるべきではない。
そう告げると、美里さんは少し驚いたように目を見張った。アーモンド型の、どこか猫を思わせる大きな瞳がぱちぱちと瞬く。
「……随分と詳しそうに言ってくれるけど、そもそもあんたたちってどういう関係なの? 千早の職場の先輩だってのは、前に聞いたけどさ」
関係。あの後輩との関係。そんなことを改めて聞かれても俺だって困る。職場の後輩で、元指導担当で、今はそれに加えてご近所さん。たまに一緒に飯を食ったり、最近では料理を教えたりもしている。強いていえば──
「会社の同僚で、ついでにたまたま家がご近所だった縁で今では週に四日くらい一緒に飯を食う仲……てとこですかね?」
「多くない?」
正直、俺もそう思う。だが事実なのだから仕方ない。
美里さんは、既にジュースを飲み干し、リビングの一角に置いてある玩具箱から、最近お気に入りのお医者さんセットを出して遊んでいる百瀬を見ながら、少し複雑そうに言った。
「この家、子供用のおもちゃとかがいっぱいあるから、てっきり千早の育児友達みたいなのかと思ってたけど──」
「あ、それはないです。俺は独身ですから」
彼女が恐怖の表情を浮かべた。
先程まで浮かんでいた奇異の視線が引っ込んで、代わりにありありと怯えの色が浮かんでいる。これはいけない。俺は慌てて弁明した。
「ええと、近所に住んでる姉のところに姪っ子がいて、その子たちがたまに遊びに来るからおもちゃを置いてあるんです。俺自身は独身です」
必死に捲し立てると、美里さんから微かに警戒の色が薄れた。
「そ、そう。だからおもちゃもたくさんあるのね」
「ええ、姉のところは四つ子でして。一つだけだと取り合いになるんですよ」
「なるほど……つまりパパ友じゃないけどその子たちとモモが仲がいいから、千早とも家族ぐるみの付き合いをしてるってわけね」
彼女はようやく合点がいったとばかりに頷いた。
まあ実際には件の四つ子は百瀬の遊び仲間どころか既に小学生だし、昔はともかく最近ではもうちに遊びにくることは殆どないし、いま百瀬が使っているおもちゃだって、姉のところから借りてきたものだが、それはあえて言う必要はないだろう。なんかまた、余計な誤解を招きそうな気がするし。
お茶と渋皮煮を空にした美里さんは「さてと」と腰を上げた。
「そろそろ帰るね私。ご飯どきにいつまでもお邪魔しちゃ悪いし」
「え、もうですか? よかったら、今日は一緒に夕飯食べていきませんか? 多分こうは──足立のやつも、帰ってきたらうちに来ると思いますし」
「いいよいいよ。急に上がらせてもらっただけでもご迷惑なのにさ。本当は、千早の奴が帰ってくるまでは待とうと思ったけど、モモもこの家で過ごすの慣れてるみたいだし、あんたがいれば心配無さそうだから。私もこの後、まだ仕事があるし」
こちらが止めるのも聞かず、さっさと上着を羽織ると玄関に向かう。百瀬は遊びに夢中なのか、ばいばーいと気のない挨拶だけをしていた。集中してる時の子供なんてこんなものだ。だが美里さんはなおざりな百瀬を気にもせず出て行ってしまう。
仕方ないので玄関先まで見送りに行くと、既に靴を履いていた彼女が唐突にくるりと振り向いた。
美里さんは女性にしては背が高い。おまけに今日は踵の高いブーツを履いているせいで、さらに身長が高くなっている。おかげで振り向いた瞬間、彼女の薄い唇が俺のそれと一瞬だけニアミスしそうになった。
「……………っ!?」
驚きのあまり反射的に下がろうとするより早く、彼女の伸ばした手がぐっとこちらの首元を掴む。そのせいで、俺より背の低くそして恐らくは年下であろう女性に、まるで脅されているような姿勢になった。
「な──なんですか……?」
「……あのさ。あんたがあの兄妹たちにとってどんな人間なのかは知らない。あの二人の事情をどこまで『聞いてる』のかも私は知らない。けど千早は……あいつはぱっと見、人当たり良さそうに見えて実は普通に嫌な奴だけど、ああ見えて意外と苦労性だったりするし、百瀬は私にとって実の娘みたいなもんなんだ。だから──」
そして。下から睨めあげるように、俺をひたと見据えてくる。
「この先、もしもあんたがあの兄妹を裏切ったりしたら、ただじゃおかない」
俺よりずっと小柄で華奢な女性であるにもかかわらず、思わずこちらが怯むほどにそれは苛烈で鋭い眼差しだった。
しかし、急に裏切りとか言われてもなんのことだか分からない。五人組制度があった時代ならともかく、このご時世にご近所さんを裏切る機会などそうそうあるだろうか? 今時、村八分でもあるまいし。
なので俺は、彼女の手を引き剥がしながら、ゆっくり言葉を吐き出した。
「急にそんなこと言われてもなんのことか分かりませんが……あいつらとはご近所さんですからね。俺だってうまくやっていきたいと思ってますよ」
これは本音だ。俺だって別に、あの兄妹たちと喧嘩したなどと思っているわけではない。多少迷惑で自分勝手で自己中なところはあるが、それでもあの兄妹たちと過ごすのも飯を食うのも、そこそこ楽しいと思っているのだ。
俺の答えに、彼女は急に気が抜けたように「そっか」とあっさり手を離した。
「急に変なこと言って悪いね。でも今言ったことは本気だから、くれぐれも忘れないで。そして出来れば、もしなんかあったら時にはあいつらの味方になってやって欲しい」
それだけ告げると最後に「栗とお茶、美味しかったよ。ご馳走さま」とだけ言って、今度こそ彼女は出て行った。
俺は胸中で首を傾げながら、夕飯の支度をすべく百瀬のいるリビングへ戻った。
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