発症


 どんどんどん! と我が家の玄関のドアが激しく叩かれたのは、とある日曜の朝のことだった。


「なんだぁ……?」


 一瞬、宅配業者かと首を傾げたが、すぐにそんなわけない思い直す。このマンションは一応オートロックだ。たとえ宅配業者であっても、住人の許可がなければエントランスの中には入れない。


 だったら誰だ?


 まだ半分寝ぼけていた頭が、急速に覚醒する。と、同時にひやりと刺すような不安が胸の内にこみ上げた。施錠はしてあるし、こんな日の高いうちから物騒なことなど起こらないとは思うが──それでも念のため、俺はスウェット姿のままキッチンに向かい、包丁を手に取ると警察に連絡しようとスマホを探したところで、


「……る……くん、と……るくん……とおるくん!あけて!!」

「……百瀬か?」


 乱暴にドアを叩く音に紛れて、微かに聞こえてくる子供の声に、俺は一気に脱力すると包丁を戻して玄関のドアを開けた。


「どうした?休日は寝てる人もいるから、あんま騒ぐとご近所迷惑──」

「と、とおるく……うあ、あああああああああああ!!」


 百瀬は俺の顔を見た瞬間、堪えていたものが決壊したように泣き崩れた。


「も、百瀬!?」

「うあああああああああ、あああああああん……とおるく……うええええええん……」

「おいどうした百瀬!?なにがあった!?」


 俺の足にぎゅうぅっとしがみつきながら、泣き喚く子供を慌てて引き剥がす。ざっと見たところ、百瀬本人にどこか怪我をしている様子はない。そのことに少しだけ安堵した。


「どうした!?なんでお前が一人でいる!?兄貴はどうしたんだ!?」


 言いながら自分でその問いの愚かさに気づく。百瀬が、よりにもよって四歳の子供が一人で他所の家に来て泣きじゃくっているのだ。普通に考えて、原因はあの後輩に決まっている。


 案の定、百瀬はしゃくりあげながら、嗚咽の合間を縫うように必死で吐き出した。


「とおるくんたすけて!ちーちゃんが……ちーちゃんがしんじゃう!!」


 混乱した四歳児からこの場で話を聞くよりも、行った方が早い。そう判断した俺は、寝起き姿のまま百瀬を抱きかかえ、一足飛びにマンションの共有階段を駆け下りて後輩の部屋へと向かった。





 後輩は確かに死にかけていた。


「……うわぁ」 


 部屋は相変わらず腐界の海だったが、その惨状を無視してなんとか寝室まで辿り着くと、そこには見覚えのある男がぐったりと力なく寝ていた。というか、倒れ伏していた。


 ベッドの周囲のあらゆるところに、あらゆるものが散乱しているのは予想通りとして、なぜかベッドの枕元にはぐっしょりと濡れたシミの跡があり、ついでにそこに寝ている後輩の頭までずぶ濡れになっている。


 濡れたベッドの上に沈んでいる後輩は、傍目にも具合が悪そうで、心なしか呼吸まで荒い。だが、額に張り付く髪の毛が熱による汗のせいなのか、頭からぶっかけられた水のせいなのかは、いまいちよく分からなかった。


 ベッドの脇にまるめたバスタオルが落ちているのは、そんな後輩の汗を拭こうとしたのか、はたまたこぼしてしまった水を拭くためか。近くには空のグラスも転がっていて、それがこの惨状の原因だということはなんとなく想像がついた。


 寝室で呆然立ち尽くす俺を見て、小さな犯人が涙ながらに訥々と自供を始めた。


「あのね……朝ちーちゃんを起こそうとしたら、ちーちゃんが起きなくてね。かぜだって言ってたの……」 


 いつもはすぐ起きる後輩だが、今日ばかりはなかなか布団から出てこなかったらしい。そして、心配して覗き込もうとする百瀬を叱ったそうだ。自分は風邪をひいてるから、部屋には近づくな、と。


 ゼイゼイと青息吐息で病床から忠告してくるあ兄に、百瀬はこれは大変とすぐに部屋を飛び出した。そして、具合の悪い兄のためにお手伝いをしようとしたそうだ。以前、風邪の時に水をたくさん飲んで汗をかきなさいと言われたので、兄のために水を運んであげようとしたのだ。


「……で、部屋で転んでその水をぶちまけちゃった、と」


 俺の言葉に、百瀬は力なくこくんと頷いた。


 床に物が散乱しすぎていたせいで、つまづいた百瀬が転倒。さらに運の悪いことに、その拍子にぶっ飛んだ水入りのグラスが後輩の頭を直撃し、その衝撃でぱたりと気を失ってしまったらしい。


 目の前で兄が突然倒れた百瀬は半狂乱になり、溢れた水を拭いたりと一生懸命介護したが、当たりどころが悪かったのか、後輩は一向に目を覚さない。そこで、泣きながら俺に助けを求めに向かったのだ。


「……なるほど」


 事情は理解したというか正直、この部屋を見た瞬間からなんとなく予想していたことではあった。


 さてこの始末をどうするか、と内心で首を捻っていると、下の方から服の裾を引っ張る気配がする。


 見ると、泣き腫らした目の百瀬がぐすぐすと鼻を啜っていた。


「ねぇ、とおるくん……ちーちゃん、しんじゃわないかなぁ……?」


 見上げてくる瞳は不安げに揺れていて、この瞬間にもぼろぼろと涙が溢れている。そんな彼女の頭を、俺は少し強めにぐしゃぐしゃと撫でた。


「大丈夫。お前みたいな可愛い妹を置いてどっかに行くような兄貴はいねぇよ。ここを片付けたら朝飯作ってやるから、ちょっと待ってな。暇なら俺の家に行ってるか?」


 この惨状を片付けるのはそこそこ骨が折れそうだし、その間ずっと待っているというのも四歳児にはキツいだろう。だが俺の問いかけに、百瀬は断固として首を振った。


「いい。ここでまってる」

「そっか」


 毅然とした顔で答える百瀬に俺は一つ頷くと、とりあえず手始めに後輩がくるまっている布団を問答無用でひっぺがした。

 




 片付けと言っても、後輩の部屋の惨状は一朝一夕にどうにかなるものではない。それでも、とりあえず濡れた布団のシーツを剥がし、掛け布団と枕を干して、汚れものは全て洗濯機にぶち込んだ。他人様の家の洗濯機だとか、そんなことは知ったことか。今日が晴天でよかった。


 さすがに料理までは足立家ではできないので(まず材料がない)朝食だけは百瀬と一緒にぱぱっと手軽に我が家で済ませ、ついでに病人でも食べられそうなものも作っておく。計ってみると後輩の熱はかなり高かったが、生憎と今日は日曜日。近くの病院も空いていない。片付けがひと段落した俺は、薬局へ向かうことにした。


「百瀬。俺いまから薬局に行って、お前の兄ちゃんの薬とか諸々買ってくるけど、一緒に行くか?」


 せっかくの日曜日なのに家にこもりきりでは退屈だろうと声をかけたが、百瀬は絵本を読みながらふるふると首を振った。


「ううん。ちーちゃんがさみしくなっちゃうから。そばにいる」

「わかった。じゃあ、知らない人が来ても鍵開けるなよ。チャイムが鳴っても無視していい。すぐに帰ってくるから」

「うん」


 四歳児に一人で留守番をさせるというのは心配だが、具合が悪いとはいえ後輩も別に 死んでいるわけではないし、少しくらいなら平気だろう。念のため、寝ている兄貴には近くな、水も運ぶなと言い置いてからマンションを出る。


 近所の薬局までは歩いてほんの五分ほどだ。


 とりあえず、百瀬のための子供用マスクに解熱剤。あと後輩が固形物が食べられない時のために、ウイダーインゼリーの類をいくつか買っておけばいいだろう。


 頭の中でリストを作りながら、ぽいぽいと適当にカゴにぶち込んでいく。ついでに留守番で暇をしている百瀬のおやつも買っておいてやろう。


 会計を済ませ、マンションへ帰りながらはてこれからどうするか、と悩む。幸い、今日は休日なので一日くらいなら俺が百瀬の面倒を見れやれるとして、明日以降、 後輩の熱が下がらなかったらどうするか。こんな時、ぱっと思い浮かぶのはまずご家族への連絡だが、あの兄妹は二人暮らしだ。聞けば、親御さんも具合が悪くて入院されているとのことだし、寝込んでいる息子を助ける余裕はないかもしれない。


 となると、美里さんに連絡を入れるべきだろうか?しかし俺は、未だにあの彼女が足立兄妹にとってどういう存在なのか分からない。百瀬の面倒を任されている時点で、少なくとも俺よりも親しい関係だとは思うが。


 そんなことを考えるながら、ブラブラと歩いていた俺は──


「──あの、すみません。こちらのマンションにお住まいの方ですか?」


 辿り着いたマンションの入り口の前で突然。見知らぬ女性に声をかけられた。


「突然、申し訳ございません。私、こういう者です。実は──」


 私立探偵を名乗るその女性は、一枚の写真を取り出しながらとある質問を投げかけてくる。まったく寝耳に水だったその内容に、俺は呆然と呟いた。





「──え?」

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