約束
休日の朝寝坊は、社会人に許された数少ない愉悦の一つである。
できれば午前いっぱいは布団の中で過ごしたいが、忌々しいことに土曜は資源ゴミの日だ。この辺りは比較的早く収集車がくるため、いつまでも寝過ごしてはいられない。が、今日はそんな事情など関係なしに早起きをした。
時刻は午前七時。
平日だったらこの時点で遅刻確定だが、予定のない休日の社会人の起床時間としては結構早い方ではなかろうか。実家の両親は週末でも朝五時半には起きていたが、多分あれは早起きというより歳のせいだと思う。
ベッドからのそのそと這い出し、カーテンとついでに窓を開ける。腹立たしいくらい気持ちのいい晴天。雲は薄いが日差しはまだそこまで強くなく、澄んだ青空がどこまでも遠い。
さて、シャワーを浴びてとっとと準備をしよう。
ピンポーン。ピンポンピンポンピーンポーン。
緩急をつけ、時折フェイントを挟みつつ呼び鈴を連打しながら五分ほど待ってみたが、中から返事はなかった。念のためにドアノブを回してみても鍵がかかっている。悩んだのはほんの数瞬。俺はため息とともにジーパンのポケットから昨日借りた鍵を取り出すと、後輩の部屋の扉をガチャリと開けた。
「すいませーん。おじゃましまーす」
一応、声をかけてみるが予想通り返事はない。いや──
家主は姿を表さなかったものの、代わりにリビングへと続く扉の奥からこちらを覗く、小さな人影を発見した。百瀬だ。ぎゅっとうさぎさんのぬいぐるみを抱きしめながら、用心深そうにこちらに警戒の眼差しを向けている。今日は泣き出される前に声をかけた。
「よっ、おはよ。もう起きてたのか。偉いな」
「………………」
「俺のこと覚えてる?昨日会ったんだけど」
こちらを睨んだままの百瀬が、コクリと無言で頷く。
「そっか。よかった。じゃあ、昨日の約束も覚えてるか?」
実は昨日、深酒のしすぎで寝落ちてしまった後輩の姿を見て動揺したのか、人に殺害容疑をかけて泣きわめく百瀬を宥めるため、俺は百瀬とある約束をしたのだ。正直、この子が覚えていなかったらこのまま鍵だけ返して帰ろうかと思っていたが。
俺の質問に百瀬は無言のまま、それでもコクリと一度だけ頷いた。よしよし。せっかくの準備が無駄にならずに済む。
「じゃあ俺、出かけるために『ちーちゃん』を起こさないといけないから、上がってもいいかな?」
扉の奥を指差して尋ねると、百瀬は三度頷いた。なんだか昨日とは随分テンションが違う。それだけ俺が警戒されているのか、あるいはこれが本来の彼女なのかは分からないが。
俺は念のため持参したスリッパをはき(靴下を履いているとはいえこの部屋にそのまま足を踏み入れたくなかった)勝手知ったる足取りでズカズカとリビングに進むと案の定、昨日と全く同じ体勢のままぐーすかと眠りこけている後輩の姿があった。
「…………………」
考えてみれば、なにが悲しくてせっかくの休日に朝から男を起こしにきてやらねばならんのだ。なんとなく腹が立ったので、近くに落ちていた厚手の布をそっと後輩の鼻と口の上に乗せた。
そのまま待つこと約一分。
後輩は突然「ふがっ!?」と苦しげな悲鳴をあげながら、顔を真っ赤にして飛び起きた。状況が理解できていないのか、顔面にクエスチョンマークを浮かべたまま呆然としている男に、声をかける。
「足立くんおっはー。風呂にする掃除にするそれとも飯にする?」
「……?え、あ、お……おはよう、ございます……?」
未だ混乱している足立は、目をぱちくりさせながら呟いた。
「え……なにこれ悪夢?なんで先輩が俺ん家にいるの……?そしてよりによって、なんで職場の先輩からこんな後朝みたいな起こされ方してんの俺……?」
「よく寝起き頭にそこまでおぞましいことが思いつくなお前は」
まだ寝ぼけているのだろうか。まあ、俺だって可愛い彼女ではなく会社の同僚(しかも同性)が休日の早朝から自宅までモーニングコールに来たら驚くが。
「心配しなくてもこの部屋には今来たところだよ。おい足立。お前、昨日のことどのくらい覚えてる?」
「え、昨日すか?昨日は確か会社の飲み会があったから、モモを美里さんに預けて……」
尋ねると、後輩は記憶を辿るようにうーん、としかめ面になった。そんな後輩に百瀬がいそいそと嬉しげに抱きつこうとして、嫌そうな顔で逃げた。酒臭かったのだろう。
しかし後輩はそんな反応にも慣れているのか、逃げ出した百瀬にも特に傷つくことなく、ポンっと手を打った。
「思い出した。飲みすぎて酔い潰れた先輩を、俺が同じ駅のよしみで送ってあげたら、なんとマンションまで同じだったんで家まで運んであげたんでした」
「流れるように記憶を捏造するな。自由かお前は」
「冗談ですって。けど、泊まってったんじゃないなら、なんで先輩が朝からうちにいるんです?」
「昨日、お前が寝落ちた後に戸締りして帰ったから、鍵返しに来てやったんだよ」
ほれ、とポケットから鍵を取り出して渡すと、寝起きの後輩の顔に驚きと呆れをないまぜにしたような色が浮かんだ。
「相変わらず生真面目っつーかなんつーか、本当にそういうとこ律儀っすね先輩……にしたって、わざわざ休日のこんな朝早くから来ることないでしょーに」
「なんだよ、お前だって鍵ないと困るだろうがよ。つーか、そっちはついで。昨日、百瀬と朝飯食べる約束してたから、迎えにきたんだよ」
「は?」
鍵を受け取ろうと手を出してきた後輩が、ポカンと間抜けな声をあげた。それを無視して続ける。
「ちなみに覚えてるかどうか知らんけど、俺の部屋この一つ上だから。朝飯の用意はしてあるから、お前はさっさとシャワー浴びてその酒臭さをなんとかしてから百瀬と一緒に上がってこい。休日とはいえ、子供にこんな時間まで朝飯を食べさせないとか虐待だぞお前」
「え、いや、先輩ちょっと……」
「それとも百瀬、俺と一緒にきて先に飯食ってるか?お腹空いてるだろ」
それはなんの裏もない、純粋な親切心からの問いかけだったのだが。
「や!」
当の本人から、それこそなんの裏もなく全力で拒否され、俺はすごすごと一人で部屋に戻った。
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