百瀬

「コーンコン、だからお兄さんはね。悪い人じゃないんだコン!『ちーちゃん』と一緒に働いてる知り合いなんだコン」


 指を狐の形に変化させ、狐語(語尾にコン)で喋る俺に向けられる幼子の視線はただただ冷たかった。さながら液体窒素のように冷たい。


 リビングに続く扉の影に半分ほど身を隠し、じっとこちらを見つめる彼女は涙こそ止まっているが、泣き止んだわけではない。僅かに潤んで充血した瞳は、泣くぞすぐ泣くぞ隙あらばいつでも泣くぞ、という強い気概に満ちている。


 あの後、泣き叫び怒ってるんだか暴れてるんだか怯えてるんだか、多分本人にもよく分からない状態になってしまった幼子をなだめるのに三十分の時間を要した。


 しかもその間、当然のようにあの粗大ゴミもとい後輩は目を覚まさなかった。


 寝ゲロ対策として横向きに寝かせたけど、仰向けに寝かせてやればよかったと密かに後悔した。


 一度火がついて泣き出した子供には、どんな理屈を言っても通じない。何を言っても悲しくなるし、何を言っても怒ってしまう。少なくとも、俺の経験上ではそうだ。意固地になった子供に大人の話は通じない。なので俺は、全力で大人であることを投げ捨てた。具体的には『社会人・成人男性・立花透』のスタンスを捨て、一匹の可愛い狐へと変身を遂げた。


 初産が四つ子とかいう、歴戦の戦士だってなかなかクリア出来ない大修羅場を迎えた姉によって、未婚独身であるにも関わらず俺の育児スキルはかなり鍛え上げられている。その俺の経験からすれば、『見ず知らずの大人の男』より『可愛い狐さん』というフィルターを通したほうが話もしやすい。相手によっては馬鹿にされたりもするが。


 しかし幸い、この時に関しては賽の目は吉と出てくれたようで、彼女はなんとか狐さんの話を聞いてくれた。聞いてくれたというか、少なくともギャン泣きで最初からこちらの話を全てシャットアウトするのではなく、一応耳を傾けてくれた。それだけで万々歳である。


「『ちーちゃん』は今日、お仕事の人たちと一緒にお酒を飲んできたんだコン。お酒はとっても美味しいけど、たくさん飲むと眠くなっちゃうんだ。それで飲みすぎた『ちーちゃん』が寝てしまったので、お兄さんが家まで送ってきてあげんたんだワン」

「ワン?」

「ワンなんて言ってないコン。狐だコン」


 途中、即席のキャラ設定がブレるという予想外のアクシデントが発生したが、大人の機転で乗り切った。


「なので、お兄さんのことはあまり怖がらないで欲しいコン。悪者ではないんだコン」

「でもちーちゃんが……わるい人がいい人のふりすることもあるから、ちーちゃんの知らない人となかよくしちゃダメだって……」


 ふむ。物騒なことの多い昨今、さらに女の子という点も考えると、足立後輩の指導はあながち間違っているとも言えない。むしろ、この歳にしては随分としっかりした危機管理能力だ。


 俺を最初に襲撃したのも、見ず知らずの大人に対する警戒という点では立派なものである。まあ、俺が本当に悪人だった場合は逆効果にしかならないので、お転婆はほどほどにした方がよいが。


「気持ちはわかるけど、お兄さんはちーちゃんの知らない人じゃないから、心配しなくていいコン。嘘だと思うなら、ちーちゃんに聞いてみるといいコン」


 そうだ。俺が脛にローキックを食らうはめになったのも、こうして幼気な子供に懐疑の眼差しを向けられているのも、元を正せば全てあいつが悪い。


「おいコラ、起きろ足立。いつまでも寝てんな」

「コラー!!!ちーちゃんをいじめるなー!!!」


 意識を失っている後輩を起こそうとして頭を蹴り飛ばしたら、正義と勇気に満ちた子供に怒られた。


 いや、怒られたというか正確には殴られた。

 地味に痛い。


 あと、他人の家の教育に口を挟むつもりはないが、いくら幼いとはいえこうも安易に人に暴力をふるうのはあまりよくないと思う。


 しかし蹴り飛ばした甲斐はあったのか、俺が殴られた箇所を抑えながら痛みに蹲っていると、足立が目を覚ました。ふわぁと呑気そうな欠伸などしつつ、うーんと大きく伸びをする。


「あー……よく寝た。そしてただいまマイホーム。酔っていたとはいえちゃんと一人で帰って来られた俺グッジョブ」

「んなわけあるかボケ。俺がお前をここまで運んできてやったんだよ」


 短時間とはいえ眠ったことで多少酔いも醒めたのか、いつもの調子で勝手に都合のいい解釈をしている後輩に半眼で告げてやると、足立はなぜか驚いたように仰け反った。


「ぬぉわ!?……え、ていうか先輩?なんで先輩が俺ん家にいるんすか?」

「 飲み会でお前が酔い潰れたんで、お前と同じ駅だった俺が面倒を押し付けられたんだよ。それより足立。この子に俺がお前の知り合いだってちゃんと説明してやってくれ。さっきからめちゃくちゃ警戒されてる」

「警戒って……あー、なるほど。百瀬、まだ起きてたんか」


 後輩がその名を呼んだ途端、扉の奥に隠れていた本人が弾丸のように飛び出してきて、勢いよく抱きついた。

「ちーちゃん!おかえりなさーい!!」

「おーぅ、ただいまモモ。今日も可愛いなこいつめこいつめ!ちゃんといい子にお留守番してたかー?」


 後輩は、抱きつくというか軽く飛びかかる勢いで突進してきたモモーー百瀬とやらを危うげなく抱きとめた。


「してたよー!あのね、モモね、わるい人からちーちゃんを守ってたの」


 恐らくだがここで彼女のいう『悪い人』というのは、まず間違いなく俺のことなのだろう。察した足立後輩が百瀬を抱きしめたまま苦笑する。


「あのなー、モモ。この人は立花透さんといって、俺と一緒にお仕事してる先輩なの。先輩っていうのは、同じ場所にいる年上の人のこと。モモは今うさぎ組で年少クラスだろ?でもらいおん組の年長クラスは、同じ保育園のお友達だけど歳が違うだろ?そういう人のことを大人の世界では先輩っていうんだ」


「その人はちーちゃんのせんぱい?」


「そうだよ。ちょっと目つきと口と態度と性格が悪くてぱっと見にはチンピラにしか見えないけど、こう見えて意外と真面目だし見かけほど悪い人ってわけでもないし、知らない人でもないからとりあえず大丈夫」

「フォローしてんのか貶してんのかハッキリしろ」


 少しイラッときたので軽く頭を叩いてやったら、またしても百瀬にどつかれた。

 実に理不尽である。


 当の後輩は殴られた事はあまり気にならないのか、痛がりもせずキョロキョロあたりを見回すと、


「モモ、そういや美里さんはどうした?」

「みーちゃん、いなくなっちゃった」

「いなくなったぁ?」


 実に端的な相手の答えに、後輩がひっくり返った声を上げる。彼は百瀬を抱っこしたままこちらを振り向いて尋ねてきた。


「あのー、先輩すいません。この家に来た時、このおチビの他に誰かいませんでしたか?具体的には髪がこーんくらいの女の人とか」


「あー、いたぞ。黒髪ロングさんだろ。俺と入れ違いで出て行った。その後で、物音に気づいたその子が起きて来たんだ。なんか急ぎの用事があるとか言ってたぞ」


 多分、彼女は留守を預かっていたというよりここで子守を任されていたのだろう。答えると、後輩はあからさまに顔をしかめた。


「マジかよあのおばさん……先輩がいてくれたからいいものの、モモを置いてくなんて困った人だなー」

「なー」


 よく似た顔立ちの大人と子供が、互いに顔を見合わせてコテンと首を傾げている。いや、それにしてもおばさん呼びはあんまりだろう。確かに百瀬から見れば成人は皆おじさんおばさんかもしれないが、先ほどの彼女は足立後輩と比べてそこまで歳が離れているようには見えなかった。まだせいぜい二十代前半ーー世間的には充分お姉さんと呼ばれる歳である。


 足立後輩はくるりと体ごと俺に向き直ると、モモを膝に載せたままぺこりと頭を下げた。


「先輩、改めてありがとうございました。ここまで送って貰ったのもそうですけど、モモの相手をしてもらった事も、本当にありがとうございます。めっちゃ助かりました」


 膝の上に座っている幼子は、保護者が帰ってきて安心したのか早くもこっくりこっくり船を漕ぎ始めている。あまり長居しては悪いだろう。


「あー、いいよ別に。俺ん家と方向がたまたま一緒だっただけだし」

「え、マジですか?先輩ん家もこの辺なんです?」

「この辺ていうか、ここの上」

「は?」

「俺、ここの301号室。お前の家のちょうど真上が俺の部屋」

「は!?」


 後輩が驚愕の声を上げるが、実を言うとそれに関しては驚いたのはこっちも同じである。というか、マンションが同じよりもこの後輩が子持ちだったことのほうがよほど驚いた。


「ま、マジですか……!?先輩、まさか俺のストーカー──」

「どうして咄嗟にそこまで図々しい疑惑が浮かぶのか逆に疑問ではあるんだが、言っとくが俺がこのマンションに住み始めたのはもう五年前で、お前が入社するより先だからな。ここに入ったのはお前の方が後」


「ですよねー。そーっすよねー。いやもちろん冗談ですけど。ていうか先輩、家がそんだけ近いんだったら、せっかくだしこれからうちで飲み直していきませんか?モモももう寝ちゃったし」

「えっ、いいよ別に」


 後輩から誘いを遠慮ではなく本気で断る。自宅まで送ってやったとはいえ、別にこいつとそこまで親しいわけではない。人と飲むのが嫌いなわけではないが、気の置けない相手と飲むくらいなら、一人でのんびり飲むほうが酒も美味いし楽だ。


「まーまー、そう言わずに。送って貰った御礼ってか、お詫びがわりじゃないんですけど、ちょうどダチから海外出張の土産で貰ったとっておきがあるんすよ。もったいなくて一人じゃ飲めなかったんですけど、ワインなんで開けたら飲みきらないと悪くなっちゃうし」

「ほほう」


 こいつと飲む酒に興味はないが、美味い酒、という一言に心がゴトンと揺れ動いた。


 会社の人間と飲む酒は面倒臭いが、酒自体が嫌いなわけではない。むしろ好きか嫌いかで言えば好きな方に入ると自負している。飲み会が嫌いなのは、毎回飲み放題プランで安い酒しかないからだ。


 やはりどうせ飲むなら第三のビールじゃないビール。酎ハイよりポン酒。もちろん、ワインだって嫌いじゃない。立花透は酒に関しては広く門戸を開いている。そこへ海外の美味いワインと聞けば、心も動こうというものだ。


「ちなみにどこのワインだ?」

「オーストラリアっす」

「ほほうオーストラリア。ほほほう」


 オーストラリア。つまり新世界か。ワインといえばフランスやイタリアが昔ながらの有名どころだが、どっこい最近ではアメリカやチリ、オーストラリアのワインだって負けていない。そういった歴史の私いワインの『新世界』のワインと呼ぶが、個人的には値段もリーズナブルだし味だって旧世界に負けてないと思っている。俺はさりげなく頷いた。


「……あー、別に帰るったって階段上がるだけだし、今日は特に予定もないし……少しくらいなら付き合ってやってもいいかな……」

「やった!んじゃ上がってください。ちーっとばかり散らかってますけど」

「男同士だし、その辺は気にすんなよ。つーか、うちの姉貴んところも姪っ子がいるからな。子供のいる家がどんな状態かは分かってる」


 子供のいる家の片付けというものは、賽の河原で行う石積みのようなものだ。おもちゃで遊ぶ。しまう。またすぐに遊ぶ。しまう。永遠にそれの繰り返し。その上、気ままで気まぐれで大人ほど集中力も続かないため、一つのおもちゃに集中できずあっちこっち取り出しては、一つ使って片付けるということをしない。結果として、床はおもちゃだらけになり、筆記用具やリモコンは容易に行方不明となる。


 最近は大きくなって多少分別もついてきたが、赤ん坊の頃はもっとひどかった。とにかく手の届くものはなんでも口に入れる。本は破くし財布をゴミ箱に入れる。食器棚からなぜか靴下が出てくるなんて、日常茶飯事だった。あの頃の姉のノイローゼぶりを知っている身としては、部屋が散らかってることぐらいなんでもない。


 すやすやと電池の切れてしまった幼子を抱き上げたまま、リビングへ向かう後輩の後に続く。他人の家だが同じ間取りなので、この辺は勝手知ったるというやつだ。しかし廊下を進んでリビングに足を踏み入れたところで、俺は思わず息を飲んだ。



 端的に言って、そこは腐海だった。



 床に散らかった飲みかけのペットボトル。床に落ちた弁当の空き箱。脱ぎ散らかした服。空き缶。おもちゃどころの話ではない。床の上にはゴミ箱ではなくスーパーの空袋ゴロゴロと落ちており、中から入りきならなかったゴミが溢れてる。袋に詰められているのはゴミだけではないらしく、45リットルの一際大きなゴミ袋は畳まれてない洗濯物で溢れていた。洗った後なのかこれから洗うのか判別がつかないが、確かにこの床に置くよりはゴミ袋に入れた方が汚れないだろう。けどゴミ袋って。もう少し他になかったのかよ避難場所が。


 あまりに散らかりすぎていて、足の置き場どころかまず床が見えない。うちと同じアパートであれば、リビングにはフローリングが貼ってあるはずなのだが、そんなものは全く見えない。多分、地層を三層くらい突破しないとこの部屋の床は見えてこないだろう。


 ひどい。あまりにも酷い。酷すぎる。呆然と立ち尽くしている俺には気付かず、後輩は平然と腐海を踏みしめながら、ドシャドシャとリビングに埋もれているソファへと進んでいった。


「テキトーにその辺に座っててください。こいつ布団にいれたらなんかツマミでも持ってくるんで」


 座れと言われても、座るどころか足の踏み場さえない。いや、むしろこの場に足を踏み入れたくない。迂闊に入ったりしたら、絶対何か踏み潰してはならないものを踏んでしまいそうで怖い。


「座れって……一体この部屋のどこに座れってんだよ。こんなゴミ溜めの中で」

「え?そんなん転がってるもの蹴りとばせば、場所なんかできるじゃないっすか。ほらこんな風に」


 こんな風に、と言いながら後輩は朗らかにゴミを左右へ蹴り飛ばすが、それはこの腐海にスペースを作るというより、混沌をさらに攪拌しているようにしか見えなかった。


 絶対に入りたくない。

 心の底からそう思った。


「ほら先輩、ソファ空いたんでそこに座っててください」

「断る」


 ここに来てそう答えるのも大人気ないかと思ったが、世の中というものには限度があった。世の中というか、俺の忍耐力というか。


「つーかお前、一人暮らしならともかくこんな汚部屋で子供と暮らしてるのか……?もはや虐待だろそれは」


「あっ、ひでーなー。さすがにモモの部屋だけはちゃんと綺麗にしてますよ。んじゃ、俺はちょっとこいつ寝かしつけてきますねー。えーっと、パジャマは確かこの辺に、とーー」


 スヤスヤと寝ている子供の体を片手だけで器用に支えつつ、空いている片手でガサゴソとゴミ袋に突っ込まれた洗濯物の山を漁る。そこが俺の限界だった。


「子供の服をよりにもよってゴミ袋の中なんぞに入れてんじゃねぇ!」

「ぐおっ!?」


 俺の放った怒りのネリチャギは見事に後輩の脳天に突き刺さり、そのまま奴は呆気なく気を失った。そして。


「う……?わああああああああん!!ちーちゃん、死ままいでー!!」


 その物音で再び起きてしまった百瀬からの怒りの鉄槌を甘んじて喰らい、ついでに泣きわめく彼女をなんとか宥めてもう一度寝かしつけるにはおおよそ一時間を要した。


 ようやく寝付いた百瀬にバレないよう俺は静かに寝室を後にし、悩んだ結果、床に倒れ伏している後輩をゴミ溜めから掘り起こして(保護責任遺棄になると困るので)ついで流し場に溜まっている食器を洗い、ゴミを一箇所にまとめて落ちている服を畳み、最後に部屋の戸締りをしてから自分の家に戻った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る