にじいろくじら

 今日はぼくとパパとママの、最後の日。


「すごーい、イワシだよそうくん。いっぱいいるね」

「……うん」

「蒼、あっちの水槽も見てみようか」

「……うん」


 パパとママとぼくで、水族館の中を歩く。並んで歩くパパとママはなんかぎこちない。それは、ぼくとパパとママのが3人で家族でいられるのが今日で最後だからだ。

 パパとママは、『リコン』をするんだって言っていた。『リコン』ってなぁにって聞いたら、パパとママが家族じゃなくなることだよって教えてもらった。パパとママが家族じゃなくなったら、ぼくはどうなるのって聞いたら、蒼くんはパパとママの子供だよって。ぼくはよくわからなかった。


 ぼくはママと暮らすらしい。パパは、1人で住むって言っていた。帰ってくるの? って聞いたら、パパは困った顔をした。パパとママの様子を見ていたら、今までみたいに3人でずっといることはできないんだなってわかった。ぼくは悲しくていやだったけど、いやだって言えなかったんだ。

 そんな時、パパが言ったんだ。“最後に、3人でどこかに出かけよう”って。蒼が行きたいところに行こうって言われて、ぼくは水族館って答えた。ぼくの住んでるところは海がないところで、魚は図鑑でばっかり見ていたから。本当はずっと前に行く約束をしてて、ぼくはすごく楽しみにしていたのに、パパの仕事で結局行けなかった。だから、今日だってすごく楽しいはずなんだ。それなのに──なんでこんなに、悲しい気持ちになるんだろう。


「こっちだよ」

「……?」


 どこからか声が聞こえた気がして、ぼくは足を止めた。キョロキョロとあたりを見てみるけど、さっきの声の人は見つからない。パパとママはその声に気づいてないみたいで、水槽を見上げながらゆっくり歩いている。


「こっち、こっち」


 あっちの方から聞こえる気がする。なんだかその声を無視したらいけない気がして、ぼくは声のする方に向かって歩き出した。だんだん声が近くなっている気がする。どこから聞こえるんだろう。この上かな。ぼくは細い、鉄でできた階段を一段ずつ上がる。けっこう、高いな。


──うわぁ……!


 ここ、水槽の上だったんだ。上からあの大きな水槽を眺めるのは初めてでワクワクする。すごい、水族館の水槽ってこうなってるんだ。あんなにいっぱい魚がいる。すごい、すごい!


「あっ!」


 夢中で眺めていたら、バランスを崩してしまった。前のめりになって、つかまるものもなくて、ぼくは水槽の中におっこちてしまった。

 ぼく、泳げないのに。もがけばもがくほど、体は沈んでいってしまう。どうしよう、どうしよう。誰か助けて──!


「大丈夫。落ち着いて」

「!」

「息も苦しくないはずだよ。落ち着いて、吸って、吐いてごらん」


 優しい声がした。息苦しくないはずがない。だって、ここは、水の中で──あれ?


「……苦しくない……。息も、できる……それに、しゃべれる……?」


 ぼくは、水槽におっこちて、溺れたはずだ。水槽の中には、魚もいる。魚たちはぼくの横をゆらりと泳ぎ去っていく。ここが水の中なのはたしかなんだけど、なんでぼくは苦しくないんだろう。


「落ち着いたかい?」

「あっ……その声。ずっとぼくを呼んでたのは、君?」


 目の前をキラキラした七色が通り過ぎる。声の主──虹色のくじらは、返事をする代わりにぼくの周りをぐるりと泳いで回った。すごい。すごいすごいすごい! こんな虹色のくじら、図鑑にはのっていなかった。すごくきれいで、大きくて、しかもしゃべるなんて、聞いたことがないよ。


「君はこの水族館のくじらなの? どうして君はしゃべれるの? ぼくは、どうして苦しくないの?」

「おいで、蒼。この中を探検しよう」


 くじらは答えてくれなかった。その代わり、ぼくを導くようにゆっくりと泳ぎ始めた。ぼくは慌ててそれを追いかけようとしたけれど、泳ぎ出すには服がまとわりついて、邪魔だった。


「そんなもの、置いて行ってしまえ。何をしたって君の自由なんだから」

「……」


 くじらの声は、ぼくに優しく響いた。ここへ呼ばれたときだってそう。その声になんだかぼくは安心してしまって、なぜだか逆らおうとは思わない。

 えい。全部脱いじゃえ。ぼくは水の抵抗に邪魔をされながらも、全部の服を脱いだ。脱いだ服は言われた通りそこに置きっ放しにして、ようやくぼくはくじらの後を追った。くじらはぼくのことを待ってくれていたみたいで、ぼくが追いつくとまたゆったりと泳ぎ始めた。


 くじらと水槽の中を探検している間、ぼくはいろんな魚とすれ違った。水色と黒のシマシマの魚とか、風船みたいに丸っこいクラゲとか。アリンコみたいに小さな魚も、うっすらと光ったきれいなサンゴも。この水槽の中は不思議な生き物ばかりで、ぼくはワクワクが止まらなかった。目に映るものがみんなキラキラして見えて。ぼくは泳ぐのはあまり得意じゃなかったけれど、ここでならスイスイ泳げて、息も苦しくなくて、すごく、楽しい。


「すごいね、みんなきれいだね! ぼく、こんなの初めて見たよ」

「楽しいかい、蒼」

「うん! すっごく楽しい!」


 本心だった。今日この水族館に来てから、今が一番楽しい。パパとママの後を俯いてついていくのより、ずっとずっと楽しかった。


「じゃあ、ずっとここにいよう」

「……え?」


 ぼくは、くじらが何を言ったのか、よくわからなかった。ここにって、この水槽の中に?


「だめだよ、ぼく、帰らなきゃ」

「どこに? パパもママも、明日には離れ離れなのに。蒼はそれでいいの?」

「それは……」


 今日が終わったら、パパとママは家族じゃなくなる。離れ離れになって、こんな風に一緒に水族館にくることは、なくなってしまう。帰ったら、もう家族は終わりなんだ。


「ここにいよう、蒼。ここは楽しいよ。みんな楽しい」

「……でも……」

「見てごらん、蒼」


 くじらがヒレで何かを指した。それは丸い窓で、水槽の向こう側が見えるようになっていた。向こう側には、もちろん人がたくさんいて。みんないろんな表情で、こちら側を眺めている。


「あっちは、悲しいことばかりだよ。でもここにいれば、楽しいことしか起こらない」


 向こう側にはいろんな人がいる。悲しい顔でこっちを眺めている人。赤ちゃんを抱っこしながら、幸せそうにこっちを見ている親子。熱心に写真を撮っているおじさん。向こう側にはいろんな人がいて、その数だけきっと、悲しい出来事だって溢れている。今が幸せでも、きっと悲しい出来事はたくさんある。こっち側には、それがないんだと、くじらが言う。


「僕もいる。みんなもいる。だから、蒼は寂しくないよ」


 パパはいつも仕事で忙しくて、あんまり家にはいなかった。ママもパパとの『リコン』の話が出てから、家にいることが少なくなった。1人で過ごす家は、心細くて、寂しくて。早く帰ってきてって、何度も何度も思った。ここは、そんなこと、ないの?


「蒼、」

「ぼくは──」


 ぎゅっと、拳を握りしめた。ここはキラキラして、楽しくて、幸せに溢れているけれど。


「……パパとママと、3人でいたいよ……」


 ここには、虹色のくじらも、不思議な魚も、たくさんいる。でもここには、パパも、ママもいないんだ。


「そうか。残念だよ、蒼」


 虹色のくじらは、ゆらりと動いた。その動きのきれいさに、ぼくは思わず見とれてしまった。くじらが悠々と泳ぐとぶわり、と水圧がこちらに寄せてきた。そのままくじらは背を向けて、ゆっくりと泳ぎだす。


「悲しいことがあったら、またおいで。──パパと、ママと、3人で」

「……うん! またね!」


 ぼくがそう言うと、くじらは笑ったように見えた。くじらなのに笑うなんておかしいかもしれないけれど、たしかにぼくにはそう見えたんだ。くじらはそのままどんどん泳いで行ってしまって、ぼくにはもう追いつけないくらい遠くまで行ってしまったのだった。虹色のくじらは、もう見えない。



 * * *



「……今の蒼くんの寝言、聞いた?」

「ああ。聞こえた」


 はぐれたと思った時にはひどく焦ったが、すぐに見つかった蒼は大きな水槽の前でスヤスヤと眠ってしまっていた。それほどまでに疲れてしまったのだろうか、と、みどりは子供を背負いながら考える。


「なぁ、緑」

「……うん」

「蒼は、ずっと何も言わなかったけど、きっとずっと辛かったんだよな」

「……うん」


 ずっと楽しみにしてたはずの水族館だったのにあんなに静かでいたのは、きっと子供ながらにわかっていたからで。わかっていたから、本音をずっと隠していたのだろう。この子はずっと、我慢をしていたのだ。


「3人でいたい、か。そうだよな。まだ、こんなに小さいんだもんな」


 と橙吾とうごはそう言いながら蒼の髪を撫でる。暑いからなのか、その髪は少しだけ湿っている。


「……緑。やり直そうか、俺たち。蒼のためにも」

「やり直せるかな」

「蒼がいれば、きっと大丈夫だよ。また来よう。また3人で」

「……そうだね。また、3人で」


 そう言って、夫婦は蒼を起こさないように小さく笑った。



 * * *



 ぼくはまだ水の中にいる。暖かくて気持ちいい水の中をふわふわと泳ぐ。

 あの虹色のくじらはなんだったんだろう。もしかしたらあのくじらも、寂しかったのかもしれない。

 またおいでって言ってくれたから、きっとまた会えるよね。いつかまた絶対、パパとママと会いに来るから、楽しみに待っててね。

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