魚になったあたし
視界に広がる一面の青で、ようやくここが水の中だと気がついた。
それでも息は苦しくなくて、あたしはいつの間に肺呼吸をしない生物になってしまったのだろうと、沈みながらも考えていた。
冷たい、とかは思わないんだな。こんなに深く沈んでいるのに。感覚がなくなってしまっているのか、それとももともと水って冷たくないんだっけ。
とうとう海の底についてしまって、あたしは底に足をついた。人間の体は普通、水には浮くようになっているはずなんだけど、一向に浮く気配はなくて。上に向かってジャンプをしてから脚をバタつかせてようやく、上へ浮くことができた。でもここが深すぎて、今更上に行く気も起きない。光も差し込まない海の底だし。
肺呼吸もしなくて、水にも浮かない。ああ、あたし、もしかしたら魚にでもなってしまうのだろうか。こんなところに姿見なんかないし、確認もできないから全くの想像だけど。魚になったとしたら、何色の魚だろう。綺麗なブルーだったらいいな。
もしかしたらもう二度と地上に出れないかもしれないのに、なんでこんなに悲しくないんだろう。そう考えて、やっぱ出なくてもいいや、というか、出れなくて万歳だ、と思った。
あたしは学校でもちょっと浮いてて、親友と呼べる存在もいない。(学校では浮いてるのに水には浮けないなんて、とんだ皮肉だ。)親もうるさいだけで煩わしかったし。
このまま海で生活するのもいいかも。肺呼吸はしなくなったけど、何を食べていけばいいのかな。プランクトン? は、なんかヤダ。でもあたし、今魚食べたら共食いじゃん。……今のところお腹は空いてないから、お腹が空いたら考えよう。
海藻がゆらゆら揺れているのをしばらく眺めていたけど、それにも飽きた。いつかテレビで見た海の底って、カラフルな魚がうようよ泳いでて、すごく綺麗なイメージだったのに、ここには魚一匹いやしない。
ちょっと冒険してみようかな、と、重い腰を上げて泳ぎだした。方角も分からないから、適当に。脚に力を入れるだけで泳げてしまうなんて、あたし、水泳部にでも入ってたらよかったのかな。いや、でもそれは魚になったおかげか。人間のあたしなんて、ただのあたしだ。
しばらく泳いでいると、ようやく魚の群れの影が見えた。第一村人ならぬ、第一魚。
「おーい」
声をかけてみる。でも第一魚ビトたちは気づかない。
「おいってばー」
スピードをあげて、彼ら(もしくは彼女ら)に追いついた。目の前に立ちふさがると、魚たちはおろおろと泳ぐのをやめる。
「えーっと……初めまして?」
魚とコミュニケーションをとるのは初めてだ。伝わってんのかな、これ。今日からここに住みますとかも言うべき? っていうか、魚って家あるのかな。なんてことを考えながらじぃっと魚を見ていると、群れをなしていた魚たちは散り散りになってあたしから逃げ出した。
「あっ!? ちょっと、待ってよ!」
奴らはあたしと違ってここの海を知り尽くしているらしく、散り散りになった魚たちを追うことなんてあたしにはできない。逃げられた。それももう、綺麗に。初めましてなんて言ったあたしがばかみたいじゃないか。歩み寄ったんだぞ、あたしは。
まだあの子たちにはあたしが人間に見えているんだろうか。とって食いやしないのに。いや、まだ分からないけどさ。こんな時に思い浮かぶのは、ニモとか、アリエルの映画。あれはやっぱり、最初から同族だから仲良しなのか。
くよくよしてても仕方ない。もしかしたらあの子たちがとびきり臆病だったのかもしれないし。さっさと第二魚ビトを探しに行こう。そう思って泳ぎ始めて、魚を見かけては話しかけて、を繰り返した。でも、結果は同じだった。あたしの姿を見ては、逃げていく。みんな、みんな。「食べないよ」なんて言っても通じてないみたいで、一目散にあたしから離れていってしまうのだ。おかげさまで、あたしの周りには魚っ子ひとり見当たらない。
「……なんでよー……」
せっかくあたし、魚になったんだよ。仲良くしてよ。もっと海の中って楽しいものだと思ってた。カラフルで、キラキラしてて。でも実際は、薄暗い青に包まれているだけ。
最初は心地よく思っていた青が、だんだん重くのしかかってくるように思えた。重みなんか感じないはずなのに。
魚になれば、全部うまくいくと思った。あたしは浮かないで済むし、親にいろいろ言われないで済むし。でも、そうじゃなかった。こんな海の世界で、あたし、ひとり。
「……さみしいよぉ……」
こんなんじゃ、生きていけない。こわい、こわいよ。青は広がるばかりで、果てはなくて。あたしはそれに吸い込まれてしまいそうで。ポロポロと流したはずの涙は、やっぱり海水に混ざっていってしまった。
あぁ、あたし、今度こそ、本当に。
──ひとりぼっちだ。
* * *
ハッとして起き上がった。目に飛び込んだのはいつものあたしの部屋の風景で、あたしは家のベッドの上にいる。
夢、だったのだ。あたしは魚になんかなっていない、普通の人間で。手だって脚だってちゃんとあって、地上に生きてる。
「いつまで寝てんのー! 起きなさーい!」
下の階から、親の叱咤が飛んできて、なおさらこれが現実だと実感する。
なんだ、夢だったんだ。あたし、ここにいるんだ。手をグーパーさせて、感覚を戻すように、確かめるようにする。
「……はぁーい!」
いつもなら、返事なんかしないけど。なんとなくしたい気分で、あたしは声を張り上げた。
すうっと息を吸う。その瞬間、あたしの肺にはしっかりと空気が届いて──あたしはなんだか無性に安心して、ああよかったって、思ってしまった。
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