第4回
家に戻ると、ラナの姿が見えなかった。どこに行ったのかと思ったが、さっきまで彼女が着ていた服が脱ぎ散らかしてあったので、お風呂に入っているのだと分かった。どうして洗濯かごに入れるという簡単なことができないのかと、レイチェルは呆れた。
浴室から、シャワーの音と調子はずれな鼻歌が聞えてきた。ラナは酔うとすぐに歌いたがるのだが、歌はへたくそだ。レイチェルだってとくべつ上手なほうではないが、ラナよりはずっとましだと思っていた。
水音と鼻歌がやみ、やがて浴室のドアが開いた。中から、首にタオルを下げただけの、丸裸のラナが出てきて、こちらに視線を向けた。
「あら、帰ってたんだ」
レイチェルは息を詰めた。自分の目に飛び込んできたものが信じられなかった。
ラナは影に覆われていた。ぼんやりと見える、といった生半可なものとはまるで違う。頭からペンキをぶちまけられたように、真っ黒に、べっとりと染まっているのだった。
顔だけではなく、体じゅうが黒いまだら模様になっていて、それらがずるずると舐めるように動いている。巨大な虫がうじゃうじゃと、全身にたかっているみたいだった。
「どうしたの」
そう発した彼女の口から、ずるりと長ったらしい影が飛び出して、身をくねらせる。耳から、続いて鼻から、触手みたいなものが何本も突き出した。こちらを見つめているラナの目は、ぽっかりと黒く落ち窪んで、骸骨のようになっていた。
限界だった。レイチェルは悲鳴を上げた。
ラナはびくりとしたように後ずさったが、すぐさまこちらに歩み寄ってきた。ねえ、どうしたの、と言いながら、両手を伸ばしてくる。
レイチェルは踵を返し、すぐさま家を飛び出した。ラナがなにか叫びながら追いかけてきているようだったが、足を止めなかった。止めることができなかった。
ラナも取り憑かれていたのだ。どうしてあんなになるまで、気が付かなかったのだろう。わたしは何も知らずに抱きすくめられ、口づけされ――。
胃袋が跳ね上がるような感覚があった。屈みこんだ瞬間、堪えがたい嘔吐感に襲われた。レイチェルはさっき食べたものをぜんぶ、道端に吐き戻してしまった。涙が滲んできて、視界がぼんやりした。
唇の端を指先で拭った。まるでひと気のない、暗い路地だった。
レイチェルはびくびくしながら、あたりの様子を窺った。もうラナは、諦めて帰ったのだろうか。
ラナという女は、激昂すると決して静かにしていられない性格だった。耳を澄ませてみても、何も聞こえなかった。少なくとも、いまこの近くにはいないらしい。
力が抜けた。壁に背を持たれかけるようにして、レイチェルは泣いた。取り憑かれたラナも、汚された自分も哀れで、涙が止まらなかった。
「ねえあなた、どうかしたの」
唐突に声をかけられ、レイチェルは驚いて顔を上げた。ラナの声ではない。自分はどれくらい泣いていたのだろう、とレイチェルは思った。
そこに立っていたのは、小柄な少女だった。一目見ただけで、レイチェルははっとした。
影がない。それだけではなく、真っ白なのだ。あらゆる汚れを完璧に遠ざけたかのように、少女は透き通った肌をしていた。
レイチェルは何も言えなかった。黙ったまま、茫然と少女を見つめていた。
「泣いてるの? 誰かと喧嘩でもしたの?」
少女の声は鈴を転がしたようで、レイチェルの耳に心地よく響いた。曖昧に頷くと、少女は小さく微笑んだ。
美しい笑みだった。こんなに美しいものを見たのは、生まれて初めてだった。
「わたしの家、すぐ近くだから、よければ少し休んでいって」
少女が、すっと掌を伸ばしてレイチェルの頬に触れた。もう涙は渇いていた。
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