第2回

 目を開けると、ベッドの上でレイチェルは十八歳になっていた。十八の自分が赤ん坊の頃の夢を見ていたのだと気づき、彼女は仰向けで天井を見つめたまま溜息を吐いた。びっしょりと寝汗をかいてしまっていて、気分が悪かった。

 ベッドから這い出して台所へ行き、水を飲んだ。それからシャワーを浴びて、脱衣所でバスタオルを巻いた。

 鏡の中の自分の顔を覗き込んでみる。影は映っていない。普通の、人間の顔だ。

 居間にあるソファに腰かけ、壁掛け時計を見やると、まだ六時だった。すっかり昼と夜が逆転していて、今が朝なのか夕方なのかと迷ったが、昼ご飯を食べてから横になったことを思い出して、きっと夕方だろうとレイチェルは考えた。

 テレビを点けてみると、若いニュースキャスターが現れた。そのまま見ていようと思ったのだが、キャスターの顔にもやもやと影が這っているのが目に入って、途端に厭になってしまった。滑らかで落ち着いた声も、まるで頭に入ってこない。すぐさま消し、リモコンを放り出す。

 あーあ、とレイチェルは声をあげた。ますます気分が悪かった。

 彼女には不思議な力がある。特別な目をもって生れついた。

 真正面からじっくり他人の顔を直視してしまうと、彼女にはこうして影が見える。濃いことも薄いことも、大きいことも小さいこともあるが、ほとんどの人間に影はある。

 影に取り憑かれた人間が最終的にどうなるのか、レイチェルは知らない。母のことも、夢で見た以上のことは思い出せなかった。気が付くと母はいなくなっていて、親戚中をたらい回しにされて、十五のときに堪え切れなくなって飛び出した。それからは他人の家を転々としている――ときに対価として、甘い囁きや唇や肌を与えて。

 レイチェルが同居人を選ぶ基準はひとつだけだった。影が見えないこと。

 いまの同居人はラナという少し年上の女性だった。家に住まわせ、食事から何からすべて世話してくれるのだが、ちょっと強引なところがある。立場が弱いことは自覚しているからある程度のことは許しているにしろ、ときどき腹が立ってしまうことはあった。

 レイチェルはもう一度時計に目をやった。ラナはまだ帰ってくるまい。日付が変わる頃まで戻らないことも珍しくなく、そういうときのラナからは、いつも強い酒のにおいがした。酒自体は嫌いではなかったが、悪酔いした彼女に抱きしめられたり、身体のあちこちを無遠慮に弄られたりするのは少し不愉快だった。

 しばらくソファでぼんやりしてから、涼んだのでそろそろ服を着よう、夕ご飯を食べに出掛けよう、と壁際にあるクローゼットを開けてみて、レイチェルは首を傾げた。なんだか昨日までとは配置が変わっているようなのだ。とくべつ記憶力のよいほうではないが、それにしたって一目で分かるほど違いすぎる。レイチェルはいらいらと、服の山をかきわけて中身を調べはじめた。

 同じクローゼットをラナも使っているのだし、そもそもここはラナの家なので、文句を言う筋合いはない。しかし自分の服ばかりが弄くられているような感じがして、どうにも面白くなかった。以前からずっと着ていた黒のカーディガンもなくなっている。その代りに、レイチェルの趣味ではない派手な柄物がいくつもぶら下がっていた。ラナが自分で着たくて買ってきたのだろうか、と思ったけれど、それにしてはクローゼットの右半分、レイチェルのスペースに下げてあるのが妙だった。

 玄関からがちゃがちゃと物音がした。思ったよりも早くラナが戻ってきたらしかった。半裸のまま迎えに出るのも躊躇われたので、そのまま放っておくことにする。

「ただいま。レイチェル? 起きてるの?」

 ずいぶんと早い時間なのに、酔っぱらったような声だった。

「起きてる」

 応じると、ラナがよろよろと部屋に入ってきて、レイチェルにしがみつくように崩れ落ちた。ふたりしてソファに沈み込む格好になった。

「お酒くさい」

 レイチェルは立ち上がると、冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出して投げつけた。ラナは意外と器用に受け取って、ふたを開ける。こっちへ来て、と言うようにラナが掌をひらひらさせたが、レイチェルは気づかないふりをして、

「わたしのカーディガンが見当たらないんだけど」

 ラナは顔を上げた。頬は紅潮しているが、彼女に黒い影はない。それだけで、とても綺麗な顔に見えた。

「ああ、あれね」

 事もなげにラナは言い、

「ごめんね。クローゼットの整理をしたときに間違って染みを付けちゃったから、捨てたの」

 嘘だ、とレイチェルは直感した。ただ整理をしただけで、どうして服に染みが付くことがあるだろう。仮に汚してしまったのが事実だとしても、黒いカーディガンなのだから、クリーニングに出してくれれば充分に着られるようになっただろう。

 きっとラナが気に入らなくて、わざと捨てたのだ。思い返してみれば、レイチェルがそのカーディガンを着ていると、肌の色が暗く見えるだとか、もう少し華やかなほうが可愛いだとか、さんざん文句を言われたものだった。

 レイチェルが不満げにラナを睨みつけると、彼女はなぜか笑いかえしてきた。何が面白いのだろうと思っていると、ラナは立ち上がって歩み寄ってきて、クローゼットに手を突っ込み、

「お詫びに、新しいのを買ったから。こっちのほうが素敵じゃない?」

 ラナが取り出したのはさっきの柄物のうちでも、レイチェルがまるで好みでないと感じたワンピースだった。レイチェルが表情を曇らせたのに気付かなかったのだろうか、ラナは可愛い、似合う、と褒めはじめる。レイチェルは遮るように、

「ごめんラナ、わたしちょっと――出掛ける」

「そう。じゃあ、せっかくだから着て行ったら」

 レイチェルはかぶりを振り、

「ちょっとそこまでだから、いいよ。また何かのときにおろすから」

 ラナは残念そうな顔をしたが、それ以上なにも言わなかった。レイチェルはさっさと、捨てられずに残っていた自分の服と下着を手に取って、いったん脱衣所に引っ込んだ。バスタオルを洗濯かごに入れ、服を着る。

 支度を終えると、鞄を抱えてすぐに部屋を出た。ばたん、と音を立てて扉を閉め、階段を下りる。

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