取り憑かれた女
下村アンダーソン
第1回
母の頭蓋の内側で蠢く影のことを、レイチェルは誰にも言えなかった――まだ生まれたての赤ん坊だったからだ。
黒い汚れがくっついている、と最初は思った。ときどき力ない呻き声を上げる母の、汗にまみれて乱れた髪のあいだから、広い額が覗いていた。そこが、べっとりと染まっているように見えたのだ。
侍女に抱っこされながら、レイチェルはベッドに横たわる母の様子を眺めていた。驚いて目をぱちくりさせたが、見間違いではなかった。
観察しているうちに、汚れは肌の表面に染みついたものではなく、内側に潜りこんだものが透けて見えている、というほうが正確だと分かった。しかもそれが、もぞもぞと生き物みたいに動いているのだった。しきりに形を変えながら這い回る影は、歪な人の手のようでも、脚や触手がたくさん生えた虫のようでもあった。
何かとても悪いものだ、とレイチェルは思った。悪いものが、お母さんの中に入り込んでいる。
誰かにこの気持ち悪いものを追い払ってほしかった。そうすれば、母はきっと元気になるだろう。レイチェルは、短い手足をじたばたさせた。
ベッドの傍らには初老の医師が立っていた。立派に白衣を着こんで、厳めしい顔つきをしていた。この人がどうにかしてくれるのかしら、とレイチェルは考えた。
しかしレイチェルの期待はあっさり裏切られた。彼は、母のお腹に手を当てたり瞼をひっくり返したりと、まるで見当違いなことを繰り返すばかりだったのだ。どうしてそんなことをしているのか、まるで理解できなかった。
やがて医師は重々しい表情で首を振り、何かを言った。幼いレイチェルにはその意味がさっぱり分からなかったが、よくない知らせであろうことは直感していた。
ベッドを囲んでいた家族や親戚たちが一斉にすすり泣きはじめた。抱っこしてくれている侍女が顔を寄せてきて、落ちた涙がレイチェルの頬を濡らした。ここにいる誰もが、自分を憐れんでいるみたいだった。
レイチェルだけが泣かずに、じっと母の額を見つめていた。やがて彼女の小さな頭の中で、ある考えが少しずつ形を成しはじめた。
これはきっと、見えてはいけないものなのだ。見えていることを人に知られてはいけないものなのだ。
母がまた小さく呻き、やがて静かになった。その額に巣食う黒い影は、顔全体を覆い尽くすように、急速に広がりつつあった。
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