もし、俺がこのまま死んだらきっと後悔する
久々に大きな喧嘩をした。付き合って5年、同棲して半年。同棲してから、相手の嫌なところに気づいてしまったり、文句を言いたいようなことがあったりもしたけど、それなりにうまくやってきたはずだった。でも、昨晩その我慢の壁が崩壊した。
きっかけは些細なことだった。きっと今までつもり募っていたものが暴発したのだ。だからきっときっかけなんてなんでも良かったのかもしれない。
あまりに腹が立っていたから、今日の朝も一言も言葉を交わさず、目すら合わせず家を出てきた。向こうも多分それは一緒で、私のご機嫌をとろうとも、謝ろうとも、謝らせようともしなかった。
あまりに久しぶりの喧嘩だから、私は仲直りの方法を忘れてしまった。昔は喧嘩をした時、いつもどうしていたんだっけ。私が折れたっけ。彼が折れたっけ。でも今回のは、私が悪いわけでもない。それなのに私から謝るのはおかしい。かといって、朝の彼の態度からするに、彼も譲らなそうだった。
どうしたものかな。ため息をひとつついて考える。こんな喧嘩ひとつ、すぐに解決できないなんて。もしかしたら、潮時なのかもしれない。別れも視野に入れながら、私は昼休みに賃貸物件の情報サイトを流し読みした。
* * *
彼からの連絡は一向にない。ここまでくると、帰ってくるかどうかも怪しいところではある。帰ってこないならこないで、作ってしまった夕飯は明日の弁当行きだから別にいいけど。ラップしておいておいた夕飯のおかずを冷蔵庫にしまい、ぼんやりとテレビを眺める。時刻はすでに11時を回っていて、報道番組が今日のニュースを取り上げている。あ、あの事件の犯人、捕まったんだ。ふーん。
相槌を打つ相手がいない。だから言葉も発さない。テレビの音だけが部屋に響いて、なんだかどうしようもなく寂しくなる。本当に、帰ってこないつもりなんだろうか。このまま終わりで、いいの? 私も、彼も。
ガチャリ。
鍵の開く音がして、弾けるように顔を上げた。もそもそと靴を脱ぐ彼の姿を見て、私は怒りよりも安心が前に出てしまって、怒りの顔を作るのが数秒遅れた。もう怒りはだいぶ薄れてはいたけれど、私にも意地ってものがある。
彼は一瞬だけ私の顔を見た。今日、初めて目が合った。彼はしばらく顔を背けていたけれど、そのうち小さく頭を下げた。
「……昨日は、ごめん」
あれ。
まさか素直に謝ってくるとは思わなくて、拍子抜けだ。驚いて一瞬顔が素に戻ってしまった。慌てて顔を引き締める。
「どういう風の吹き回し? 昨日も、今日の朝だって、あんなに……」
「さっき、さ」
話を遮られ、言葉を紡ぐ。何を言い出すのかと思えば、予想の斜め上をいく話だった。
「帰ってくる途中、車に轢かれかけた」
「えっ!?」
「間一髪で避けたから、手のひら擦りむいただけだったんだけど、頭真っ白になった」
「それは、」
そうでしょ、と相槌を打ちたくても打てなかった。私はその話を聞いて、自分でもびっくりするくらい青ざめて、動揺している。恐る恐る手に触れて、手のひらを見る。確かに傷だらけで、血が滲んでいる。
「本当は、適当に友達んちに泊めてもらうつもりだったんだ。お前がその気ならこっちだってって。でも、さっき、そんなことがあって。頭真っ白になる前、思い浮かんだの、お前だった」
それは、どういう……? 顔を上げると、困ったように眉尻を下げて笑う彼の顔。
「もし、喧嘩したまま──もし、俺がこのまま死んだらきっと後悔する。たぶん、俺も、お前も。そう思ったんだよ」
きっとそうだ。彼がもし、そのままいなくなってしまったら、私たちの最後の会話は、どうしようもなく汚くて、くだらなくて、あまりにもお粗末なものだった。そんな言葉をかけたまま、永遠に別れてしまうなんて、きっと後悔してもし足りない。
「だから、ごめんな」
「……うん、私も、ごめん」
生きるとか、死ぬとか、極端な話だけど。彼がこうして戻ってきてくれてよかったと思う。意地をはるのはもうやめにしよう。
「たぶんさ、これから先も、喧嘩はすると思うけど。人間いつ死ぬかわかんないしさ、すぐに仲直りするようにしよう」
「……ふふ、そうだね」
人間、命が終わる時なんてわからないものだ。もし明日死ぬなんてことがわかっていたら、きっとこんな風に喧嘩なんてしない。最後の時に、喧嘩をしていたらきっと後悔する。
喧嘩をしたら、悪い方がすぐに謝る。私たちの間に新たなルールができた。当たり前だけど難しい、一緒に暮らしていく上で必要な決まり。
「……なぁ、俺、本当に生きてる? 魂だけ帰ってきちゃってるパターンじゃない?」
「ばか。生きてるよ。さ、ご飯食べよう」
触れた彼の手は温かい。私が笑うと、彼も安心したように笑った。
検索履歴は、あとで消しておこう。私も、彼も、自分たちで思っているよりずっと、お互いを必要としているようだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます