ガムシロップの行方
賞味期限、2016年3月16日。
袋の裏側に書かれた数字の羅列を見て、あー、やばい、と思う3月の頭。部屋の片付けをしていて俺がたまたま見つけたのは、ガムシロップだった。袋は開いているが数はそんなに減っていない。おそらくまだ2、3個しか使ってないのだろう。自分の部屋にあったものなのに『だろう』なのは、俺にはこれを買って使用した記憶が全くないからだ。
「……盲点だった」
同棲解消してから半年とちょっと。あいつの荷物は全部返したと思っていた。あいつが自分で持っていったもの以外に、後から見つけた荷物はすぐに持ち帰らせたし、もう終わったと思っていたのに。普段使わない場所に、普段使わないものが置いてあったら、そりゃ気づかない。料理なんかしてもらうばっかりだったし、今もしないし。コーヒーはブラック派だし、そもそもこんな寒いのにアイスコーヒーはない。
いつからあったのか、という考えは無駄なんだろう。少なくとも半年より前。こんなに残っているということは、別れるよりちょっと前──と考えるのも、きっと無駄。2人が別々の道を歩いているという未来なんか見えていなかったあの頃、なくなったから、という至極何ともない理由で買い足したのだ。
あいつは甘党だった。コーヒーも牛乳とガムシロップを入れないと飲めなかったし、紅茶も砂糖やガムシロップをドバドバ入れて飲んだ。その糖分はどこに吸収されるのだろうといつも思っていたものだ。たまに俺が気まぐれでいれてあげたコーヒーも、苦いと言って砂糖を追加してたっけ。
なんて、思い出に浸っている場合ではない。問題は、このガムシロップをどうするかなのだ。賞味期限はあと数日。食べ物を粗末にするのは俺のポリシーに反する、が、アイスコーヒーに入れる以外の方法が俺には思い浮かばない。
俺はポケットから携帯を取り出して、しばらく眺めた。
『あいつの荷物が出てきたから引き取って渡してくれない?』
俺たちの事情を知ってて当時世話になった、あいつと俺の共通の友だちをLINEで見つけ出し、文字を打つ。だけど、そこまで打ち込んで、いやいやと首を振った。指はそのまま消去ボタンに置いて文字を全消しする。荷物、って。ガムシロップだよ、ただの。
そう、ただのガムシロップなのだ。それなのに俺はこんなにも翻弄されてしまっている。きっとあいつは、俺の家にあるガムシロップのことなんて覚えていないし、必要になれば新しいものを買うに決まってる。行き場のないこの賞味期限切れ間近のガムシロップは、俺の中で消化するしかないのだ。ついでに、このシロップのせいで生まれてしまったやるせなさも虚無感も。
「……はぁ」
とりあえず、お湯を沸かしてインスタントコーヒーを作った。ホットコーヒーに氷を大量に入れて、ニセモノのアイスコーヒーを作る。それにガムシロップを一つ入れて、マドラーなんかないから箸でくるくると混ぜて飲む。
「あま」
やっぱり美味しいとは思えないそれは、薬のように流し込んだ。せめて牛乳があってカフェオレにできたら、何か変わったかもしれない。何も変わらないかもしれない。料理上手で甘党だったあいつなら、こんな袋すぐに使い切ってしまうのだろう。何に使えばいいのかなんて、こんなこと誰にも聞けないし。変なところで1人の寂しさを痛感する。
とりあえずSiriにでも聞いてみようかなんて、バカな紛らわし方を思いついて、1人で笑った。『Hey,Siri “ガムシロップの消化法”』──なんてね。
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