コトノハキャンディ

「佐藤くん、ちょっと」


 あぁ、きた。これは部長のお小言の始まりの合図だ。行きたくはないけど、渋々部長のデスクの前に行く。


「この資料だけどさ、この間注意した箇所が直ってないよね?」


 “だってその箇所、部長があとからやっぱりそのままでいいって言ったんじゃないですか”。


「言われたことすぐ忘れちゃうわけ? 君の頭はどうなってんのかな」


 “部長こそ、言ったことすぐ忘れちゃうんですか? 部長の頭も、頭の上のソレも、どうなってるんですかね”。


「とにかく、これ今日中に訂正して。明日の会議に必要だから、人数分刷っておいてよね。こんなことに時間割いてるほど暇じゃないんだよ、僕は」


 “私だって、他にやることいっぱいあるんですけど。あんたのしょーもない小言聞いてる暇ないんですけど”。


 持て余したソレらの言葉を、舌の上で転がすようにして。吐き出すこともできず、ゴクリと飲み込むと、残るのは苦味だけ。口の中に砂があるようなざらつきを心にも残したまま、私は深々と頭を下げるのだ。


「申し訳ありませんでした」



 * * *



 大嫌いなこの会社だが、屋上から見るこの景色は好きだ。昼休みの屋上には人影はなく、私はいつもここでぼんやりと時間が過ぎるのを待った。

 以前はここで空を見上げながらタバコを吸っていたのだけど、積み重なるストレスで喫煙量が増えてしまい、このままじゃいかんと代わりにキャンディを舐めることにした。少しでも吸いたい気持ちが紛れるよう、ハッカのきついキャンディだ。正直あまり美味しくない。いつもイヤイヤながらにソレを舐めきっている。

 柵に肘をかけながら、午後からの仕事を憂鬱に思っていると、キィ、と扉が開く音がした。振り返ってみると、顔見知りが一人。


「あれ、佐藤さんもタバコっすか」


 にこやかに近づいてきたのは、同じビル内にある会社の男の子だ。お互いの会社はまるで関わりはないものの、彼もここの景色がお気に入りらしく、何度か顔を合わせているうちによく会話をするようになった。彼は私の隣に並ぶと、柵に脚をかけて寄りかかる。


「ううん。タバコ、控えてるの」

「へー、珍し。健康のためっすか」

「そんなとこ。小林くんもたまにはどう? 飴、あげるけど」

「んー、じゃあ、もらおっかな」


 数減らしの口実だとはばれていまい。私は彼──小林くんに、一粒キャンディを差し出した。小林くんは出しかけていたタバコの箱をポケットにしまい、ガサゴソと袋を開け始める。

 さっき感じた苦味が、いつまでも残っているような気がする。こんなに強いハッカのキャンディを舐めているのに、だ。ハッカの飴は、まだ溶けきらない。精一杯、舌の上で転がしているのに。噛みたくはなかった。噛んでしまったら、いつまでもあのざらつきが、この嫌な味が、口内に残る気がして。早くなくなれと、ただ願うばかり。

 小林くんは、柵の内側から下を見下ろしながら、口にキャンディを放り込んだ。その瞬間。


「うわっ、まっず!」

「あ」


 ぽろっと、口に含んだばかりのキャンディが落ちた。重力に逆らうこともなく、そのキャンディは下へ下へと落ちていく。

 あーあ、と、小林くんは特に悪びれる様子もなく下を見ている。


「下に人いませんよーに」


 少しふざけた様子で合掌している小林くんを尻目に、私はキャンディが落ちた先を眺めていた。まだ、ほとんど舐めていないキャンディ。せっかくあげたのに、という思いが勝って、つい口に出た。


「あーあ、勿体無い……」

「え、そっすか?」

「だって、少しも舐めてない……」

「不味かったんすもん」


 ケロリとしている小林くん。食べ物を粗末にしてはいけないよ、と、これくらいの年代の子は教わっていないのだろうか。


「不味いって分かってて舐め続ける方が勿体無いっすよ。不毛っていうか。だって、ソレをイヤイヤ舐めてる時間で、他にいっぱい美味しいもん食べれるじゃないっすか」

「──……」


 きっと私は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。確かにそうかもしれない。じゃあ私は今まで一体なんのために、我慢を続けていたのだろう? 我慢して我慢して、私は何かを得たか? 


「美味しくないもんはペッすよ、ペッ」


 言えない言葉を、舌で転がすようにして。不味い飴玉のように持て余しているのは、きっと「不毛」なことなのだ。じゃあ、どうすればいいか。答えは簡単だ。


「あれ? どこ行くんすか? 昼休みまだっすよね?」

「ペッてしてくる」

「あぁ……」


 きっとハッカのキャンディのことだと思った小林くんが、ひらひらと手を振った。



 * * *



 途中でトイレによって、ゴミ箱に残りのキャンディを突っ込んで、口に含んでたキャンディも吐き出した。口の中がスースーするが、ざらつきは残っている。まだ吐き出すべきものはある。

 私はずんずんと歩いて行って、自分の机にあった書類を掴む。まだ訂正していないその書類を、部長の机に叩きつけた。


「な、なんだ君は」


 ペッ。


「訂正箇所の件ですけど。あそこ、あの後部長ご自身で直さなくていいとおっしゃいました」


 ペッペッ。


「部長こそ、言ったことすぐ忘れちゃうんですね? 髪の毛の心配より、記憶力の心配をなさったらいかがですか?」

「なっ……! 上司に向かってなんてことを言うんだ君は!」


 ペッペッペッ。


「上司だからって人が傷つく言葉を平気でおっしゃっていいんですか? 部下だからって、それを黙って受け止めなきゃいけないんですか? もしそうなら」


──吐き出してしまえ。長年飲み込んで来たあの言葉を。


「仕事、辞めさせていただきます」


 私はにっこりと部長に微笑んで、スタスタとオフィスを後にした。



 * * *



 あぁ、言ってしまった──なんて後悔はまるでなかった。私が持て余してきた言の葉たちは、吐き出してしまえば、舌先を離れてしまえば、なんとまあすっきり爽快。まるでハッカのキャンディのよう。

 口内でざらつく感覚はもうない。小林くんの言った通りだ。今まで勿体無いことをしてきた。

 とりあえず、美味しいものでも食べに行こうか。私はやけに晴れた昼の街に一人繰り出した。

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