ワスレズ

 亡くなってしまった人のことで、最初に忘れてしまうのは『声』らしい。じゃあ逆に、最後まで覚えていられるものって、いったい何なんだろう。



 * * *



 葬儀が終わって家に帰って来る頃には、すっかり暗くなっていた。私は着ていた黒い服を脱ぎ捨てて、ドサリ、とソファーに倒れこんだ。なんだかどっと疲れた気がする。明日も仕事だと考えるとますます気が重い。支度をした時に出しっぱなしにしていた鏡のせいで、自分と目が合う。アイラインがにじんでしまっている。あんなに泣いたのだから無理もないか。

 実家を出て一人暮らしをして数年。自炊にも仕事にも慣れて、順調に生活していた中での突然の祖母の訃報だった。病気をした、とは聞いていたけれど、こんなにあっけなくいなくなってしまうとは思っていなかった。もっと顔出しに行けばよかった、なんて後悔は今更すぎた。昔はよく会いに行ってたのに。世話焼きだったから、ちょっと遊びに来ただけのつもりなのに、結局夕飯までご馳走になって帰ったっけ。


「……お婆ちゃんの料理、大好きだったなぁ」


 主婦歴の差なのか、やっぱり母が作る料理よりも美味しかった祖母の料理。私があまりに美味しい美味しいって食べるから、母が拗ねたこともあった。それからというもの、たまに鍋ごと持ってきてくれるようになったんだけど。……あの料理、なんて言ったっけ? 喉元まで出かかっているのに、料理名が出てこない。耐えきれなくなって、私は母に電話をかけた。


《はい?》

「あ、お母さん? あのさ、昔、よくお婆ちゃんが作ってくれた料理なんだっけ? ほら、里芋とかごぼうとかがたくさん入ったお汁……」

《あー、けんちん汁?》

「そうだ、それそれ」


 思い出した。思い出してすっきりするとともに、久々に食べたくなってしまった。材料はまるでないが、今から行けばスーパーには間に合う。疲れているけど、お腹は空いてるし。

 少し迷って、私は母に尋ねたのだった。


「……ね、それ、どうやって作るの?」



 * * *



 材料はわかるけど、分量は全部曖昧なレシピを元に、けんちん汁を作った。見た目はそれっぽくできたけど、味はどうだろうか。お椀に盛ったけんちん汁をまじまじと眺めて、意を決して箸を持つ。


 里芋を一つ、頬張る。

 咀嚼して、飲み込む。


 汁を啜る。

 少し舌で転がして、飲み込む。


──あぁ。

 わかってはいたけれど。主婦歴50年以上の祖母の味が、自炊歴たかだか数年の若造に出せるわけがない。材料は一緒のはずなのに、どうして違うのだろう。その答えはきっと、祖母にしか出せない。私にあの味は作れない。


 亡くなってしまった人のことで、最初に忘れてしまうのは『声』らしい。祖母のことを少しずつ忘れていって──いつか、祖母のけんちん汁の味も忘れてしまうのだろうか。

 それはなんだかとても嫌だなぁと、あんまり美味しくないけんちん汁を食べながら、ぼんやり思った。

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