はじまりの合図

 目で追う。目が合う。目を逸らす。

 それを繰り返し、繰り返して。


「……視姦?」


 横からかけられた声に、俺は飛び跳ねるほどびっくりした。


「なっななななな、ち、ちげーし!!」

「慌てすぎでしょ」


 ふふん、と鼻で笑ったのは、親友の優征。優征はニヤニヤと笑いながら、空いていた俺の隣の席に腰掛けた。


「そんなに見てたら穴あくんじゃない? 澤田さん」

「へぁ!? み、見てねぇよ!」


 慌てて否定したけど、優征は聞いちゃいなかった。澤田──澤田千春。同じクラスで、何回か喋ったことがあるだけの、女子。澤田は俺にとって、そんな存在だったはずなんだ。


「なんかあったの? 澤田さんと」

「別に」


 何もなかったんだ。ただ、会話をしただけ。週番が一緒になった縁で、放課後教室に残って、会話をしただけ。

 それから、なんだか澤田のことが、頭に残って、離れなくて。自然と、目で追ってしまうようになった。


「まぁ、確かに可愛いよねー、澤田さん」

「……かわ、いい」


 お前が言うな、と優征を睨みつける。優征はそんな俺をからかうような目で見た。


「へぇー、孝弘がなぁ、澤田さんをなぁ。へぇー」


 うるさい。俺は優征を睨みつけたまま、机に突っ伏した。

 放課後の教室は、人もだんだんまばらになってきていた。澤田も、カバンを持って教室を出て行くところだった。その背中をちらりと見て、「あぁ、帰っちまうんだ」って思った。


「……」

「ところで、孝弘、知ってる?」

「……何をだよ」

「澤田さんね、来月引っ越しちゃうらしいよ?」

「はっ……!?」


 ガタッ、と音を立てて椅子が倒れた。でも俺はそんなことに気を使う余裕もなく、澤田が出て行った扉を見つめていた。優征はそんな俺を見て、ニコリと笑う。


「掛け声必要? よーい、どんって」

「いらねぇよ、バカ!」


 俺は倒れた椅子も直さずに、教室を飛び出した。


 目で追う。目が合う。目を逸らす。

 走り出す。走り出す。走り出す。


 スタートの合図なんかなくたって、走り出たこの気持ちは──


「澤田!!」


──抑えることなんて、出来なかったんだ。


「……へ、白川くん? そんなに慌てて、どうし、」

「引っ越すって本当に!?」


 思わず澤田の手首を掴んだ。澤田は驚いた顔で俺を見ている。

 頼む。嘘であってくれ。わかってしまったから。なりふり構わず駆け出してしまった、この気持ちは──。


「うん……引っ越す、よ?」


 全身の、力が抜けた。わかったのに。わかってしまったのに。わかった瞬間、お別れなんて。澤田はパチクリと瞬きをした後、掴まれた手首をチラリと見た。


「……あ、の」

「転校しても、元気でな」

「白川くん?」

「呼び止めてごめん、俺、行くから……」


 そっと澤田の手首を離して、背を向ける。あの角を曲がったら、ダッシュ。そう考えていたら、澤田がおずおずと声を出した。


「白川くん? 私、その、転校しないよ?」

「……へ?」


 思わず振り返る。澤田は少し考えて、ニコリと笑った。


「地区は変わるけど、学区内だから……転校、しない」

「は……」


 つまり──俺の、早とちり? 俺は急に恥ずかしくなって、くしゃり、と前髪を掴んだ。


「……なら、よかった! 今のは忘れてくれ! じゃ、気をつけて帰れよ!」

「あ……白川くん!」


 逃げるように去ろうとした背中に、呼び止める声。そろっと振り向くと、澤田がクスクスと笑いながら手を振っていた。


「また明日ね!」

「……おう! また明日!」


 直視出来ないのは、西日が眩しかったから。俺は今度こそ、逃げるようにその場を去ったのだった。



 * * *



 目で追う。目が合う。目を逸らす。

 それを繰り返し、繰り返して。


 何気無い一言とか、“また明日”がたまらなく嬉しいと思えて。

 よーいどんの合図も聞こえずに、駆け出したこの気持ちはまさしく。


「……あー、もう!」


 恋でしか、ないみたいだ。

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