カントのタイムロス
皆さんは、イマヌエル・カントを知っているだろうか? ドイツの哲学者なのだが、彼はいつも決まった道を決まった時間で散歩をしたという。数分たりとも違わぬ正確さに、周囲の人々が時計のずれを直した程に。
僕は、彼のその生きざまに大いに感動した。彼を尊敬するとともに、彼のように時間に正確に生きることに決めたのだ。
* * *
僕は腕時計を見ながら授業終了をそわそわと待つ。
「ねぇ、今江くん、またチャイムと同時に帰るのかな?」
「いつもそうじゃん」
「何であんな早く帰るの? 彼女でもいんの?」
「まさかぁ~! ないってあんな奴に限って。なんかね、何とかカント? をリスペクトしてるらしい」
「イマヌエル・カント?」
「そう、確かそんなん」
「この前現代文でやった人? 時計が何だとかって」
「あぁ、きもいくらい時間に正確だったって人か」
「え、うける。現代のイマヌエル・カントじゃんあいつ。何でそんなんリスペクトしてるの」
「知らない。まぁあいつの名前“カント”とも読めるし運命感じちゃったんじゃない?」
「運命とか! きもー」
耳に入ってくる悪口の相手をしてるほど愚かではない。あんなのを相手にするのは時間の無駄だ。奴らには彼の美学がわからない。わからない奴にはわからなくていいんだ。
僕は机の上を片付けはじめ、すぐに教室を出れるよう準備をした。チャイムが鳴る。「ああ、鳴っちゃったかぁ。じゃあ終わり」なんて言ってる教師の声を聞き流しながら、僕はカバンを持ってすたすたと教室を後にした。
* * *
うん。予定どおりだ。15分にその角を曲がり、21分にそこの信号が青に変わる。そうしたら36分に家に着く。腕時計を見ながら、僕は角を曲がった。
「……あのっ」
突然聞こえた声に少しひるむ。まぁ自分ではないだろう。足を止めることなく進む。
「……えっと! すみません!」
二度目の声に、さすがに顔を上げた。どうやら声をかけられていたのは僕だったらしい。
立ち止まったら予定が狂う。僕は歩きながら声の主を見た。声をかけてきたのは同い年くらいの女の子だった。もしそうなら高校生のはずだが、彼女は制服ではなく私服だった。彼女は僕にあわせて歩きながら、僕に次の言葉をかけた。
「……あそこの高校の人ですよね?」
「制服見れば分かるでしょう」
「いつもここの道、通ってますよね?」
「まぁそうですね」
「名前、何ていうんですか?」
何故、知らない女子にそんなこと聞かれないといけないんだろうか。僕が怪訝そうに眉を潜めたのがわかったのか、彼女は慌てて首を左右に振った。
「あっ……私、小林真由っていいます。そこの家に、住んでて」
彼女──小林さんは、すぐそこの二階建ての赤い屋根の家を指差した。住所を言ってくるくらいだから怪しい人ではないのだろう。名乗るくらいなら大丈夫、だろうか。
それに──このままついてこられても困る。わずかに生じたタイムロスが、予定を狂わせるのだから。
「僕は、今江幹人」
「みきと、さん」
いきなり下の名前で呼ばれて面食らう。一体何なんだろうこの子は。信号が見えてきた。別れるなら今がいいだろう。
「あの、僕あれ渡るから」
「あ、すみません。あの……明日もこの道通りますよね?」
「通るけど……」
「分かりました。じゃあ、さようなら」
彼女はぺこりと一礼すると、僕を見送った。……一体何だったんだ。考えると歩みが遅くなる。考えるのをやめて時計を見た。21分。ちょうど信号が青に変わった。どうやらタイムロスは免れた。
* * *
次の日も、彼女は僕を待っていた。まさか待っているとは思わなかったから、驚きが顔に出た。彼女は僕に歩みを合わせながらお辞儀をした。
「……こんにちは」
「……こんにちは。……どうして?」
「ダメ、でしたか? 待ってたら」
「いや……」
ダメでしたかと聞かれて、ダメですと言えるわけがない。僕は曖昧に言葉を濁した。すると彼女はえへへ、と頬を掻いた。
「……君、学校は?」
「私、体弱くて。学校行ってないんです」
「……何かごめん」
「あ、いいんです! 気にしてませんから!」
「今は外出てて平気なの?」
「少し歩くくらいなら全然平気です。運動にもなるし」
横目で彼女を見る。彼女はニコニコと笑っていた。色白で線が細い彼女は、確かに病弱な印象だった。それでも笑みを浮かべるなんて、僕には出来ない。
「家、あそこだって言ったじゃないですか」
「……うん」
「私の部屋、あの二階なんです」
彼女が指差した部屋は、ピンク色のかわいらしいカーテンがかかっていた。女の子って感じの色だ。
「そうなんだ」
「いつも同じ時間に、1分も違わず、幹人さんがここを通るの、見てました」
「え?」
驚いて少し動きを止める。確かに、あの窓からなら、この道はよく見えるけど──。
「最初は面白い人だなと思って見てたんですけど。本当にいつも同じ時間だから、いつからかあなたが来るのが楽しみになって」
待て待て待て待て。何の話だ。どういうことだ。僕は、ただカントのように正確に──。
「いつの間にか──あなたを好きになっていたんです。あの……急に付き合ってくれだなんておこがましいことは言えませんが。せめてお友達から、始めませんか……?」
彼女の言葉が、頭に入ってこない。ウソだろ? だって、僕はただ、正確に。彼女はどうして。
不意に、足を止めた。いや、止まるな僕の足。予定が狂うじゃないか。動け。動け僕の足。
彼女はおずおずと僕を見つめていた。あぁ、どうすればいいんだろう。まるで時間が止まったみたいだ。
「ぇ……と……僕、で、いいなら」
声が擦れる。何を言ってるのか自分でも分からない。
「と、もだち、から。お願い、します」
やっとのことで出した言葉に、彼女は笑った。すごく綺麗な顔で、笑った。
──あぁ、かわいい。
素直にそう思って、目が動かせなくなった。
おい、動け幹人。見惚れてる場合じゃない。何分経ったか分からない。でも、ずっと見ていたい。
あぁ、なんてことだ。タイムロスだ。人生最大の、タイムロスだ──。
* * *
学校を出て、15分にその角を曲がる。20分に彼女の家のインターホンを押し、21分に彼女の部屋に通される。50分に家を出て、53分に信号が青に変わる。8分には家に着く。
うん、今日も予定通り。
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