別れの時

 別れは、ほんの一瞬だ。長い月日を過ごしてきた私には、それがよく分かる。別れを惜しんで涙を流すのも、別れの握手を交わすのも、抱き締め合うのも、少しの間だけにすぎない。

 別れの後には出会いがあるというが、全くその通りだと思う。出会い、別れて、その繰り返しで人生が過ぎていく。そんな人生の中の、一つの別れを、人は覚えているのだろうか。私と出会い、別れたことに、気付いているのだろうか。

 そのあっけない別れを、私は全部覚えている。人々が忘れゆく分、私が代わりに覚えているのだ。



 * * *



 今日は、この中学校で卒業式があった。生徒達はいつもよりしっかりした制服姿で過ごしている。卒業生は胸に紅白のバッジをつけ、少し大人びた顔をしていた。目に涙を溜めている者もいれば、この後遊びに行く話をしてる者もいる。

 ずいぶん、大きくなったんだなぁ。三年前に見たときは、期待と不安に満ちたあどけない姿だった。少し大きい制服は、まだほつれ一つない新しいもので。これからの生活に胸を躍らせていた。

 それを、私はずっと見ていた。君たちの世界に、確かにいた。君たちの世界を、彩っていた。そんなこと、誰も気にしてはいないのだろうけど。


 在校生が列を作っている。もう卒業生は退場のようだ。ゆっくり──歩んだ三年間を踏みしめるかのように進む。三年間の出会いに、別れを告げていく。

 あぁ──もうこの子たちも卒業なのか。淋しくなる。今日で何度目の卒業式だろうか。私はそのたびに淋しさを感じてきた。別れが淋しいのはもちろんだが──私だけが淋しいということも少し淋しい。誰も私との別れを感じないのが淋しい。出会いは、あんなに鮮やかだったのに。何故こんなことを考えているのだろう。私は気を持ちなおそうと思った。


 そして再び卒業生に目を向けて、気が付いた。私の目の前に女の子がいる。紅白のバッジは、卒業生の証だ。私はこの子を知っている。美術部の部長を務めていた少女だ。よく校庭に出向いては、絵を描いていたのが印象深い。

 その少女は、黒の筒を後ろ手に持ち、なぜか私を見上げていた。


──何だろう。


 こうして人と向かい合ったのはいつぶりだったか。忘れてしまうほど、遠い日の出来事だっただろうか。

 少女は、優しい目をしていた。私の体に、そっと触れた。私は驚いて、体を少し震わせてしまった。少女には気付かれなかったようだ。少女は言葉を紡ぎだす。優しく、柔らかく、まだ少し寒い太陽の光のように。

 三年の月日を、思い出す。


「入学してすぐ描いたのが、この風景だったな。すごく──綺麗だったから」


 そうだ。君は毎日のようにここへ来ていた。私は、そんな君に見てもらおうと──。


「あの絵は、入賞だった。悔しかったから……もっといい絵を描こうって、頑張った」


 そうして、部長になるまで上達した。部長になっても、君は努力を惜しまなかった。


「夏に、近所の公園スケッチして、最優秀賞とったんだ。でも、あたしは納得できなかった」


 そうだったのか。私は彼女の手にぬくもりを感じつつ、彼女の言葉をじっと聞く。


「あたしは、この風景が一番好きだったから。あなたが彩っていた世界も、冬の寂しげな日も、好きだから」


──…………!!

 私は言葉を失ってしまう。あぁ、あぁ──。人はこんな時、涙を流すのだろうか。

 何だか、ひどく淋しい。いつも感じてきたあの淋しさより、はるかに淋しい。淋しい。寂しい。さみしい。

 私のことを覚えていてくれた。それだけが、こんなにも嬉しい。私は、誰かに覚えていて欲しかったのだ。私との別れを。


「また描きに来るよ。花が咲く頃に」


 少女はにっこり笑って、友達の輪に駆けていった。私はその後ろ姿をずっと見つめていた。


──待っているよ。


 私は、まだ蕾の花たちをそっと揺らした。きっと、あの子も気付いていないし、誰もが風のせいだと思うだろう。でも、不思議と淋しくなかった。



 * * *



 卒業という一つの別れを、私はずっと見守ってきた。そして、これからも見守り続けるのだろう。

 忘れないよ。出会いも別れも、すべて。誰も覚えていなくても。ほんの一瞬だとしても。たとえ一瞬でも──私がずっと覚えていれば、それは永遠になるのだから。

 もうすぐ、出会いの季節だ。私の桃色の花が、風で小さく揺れた。

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