てのひらの春
天乃 彗
侵入者X
毎週日曜日、朝の七時と夜の七時に奴は来る。我が物顔で俺の家のベランダ(といってもボロアパートの一角だけど)から侵入し、飯をねだる。か細く愛らしい声で鳴く。
「……それには弱い」
俺は頭をボリボリ掻きながら、朝飯用に焼いた鮭を少し小皿に分けた。皿を目の前に置くと、侵入者──茶色の猫は嬉しそうに食べ始めた。どこの猫かも分からない。首輪もしていないから、もしかしたら野良かもしれない。俺はその猫をそっと撫でた。ゴロゴロと喉を鳴らしている。
「……チビすけー、俺お前のせいで毎週飯が魚なわけ。分かる?」
チビすけというのは、俺が勝手に付けた名前だ。チビすけは俺の言葉をまるで無視し、鮭に夢中。俺は口元を緩ませると、チビすけの隣に座った。
──夜は秋刀魚でも焼くか……。
* * *
次の週、俺はいつものように朝食を用意しだす。今日は……サバ缶でも出そうか。そうして窓の方を見てみると、ちょっとした異変に気付いた。
──チビすけが来ていない。
いつもなら窓から勝手に侵入して、ちょこんと座って俺が準備を終わらせるまで待っているはずだ。だけど……いない。
「……何かあったのか?」
行き場のないサバ缶を、じっと眺めた。すると、玄関からチャイムが鳴る。まさか、チビす……なわけ無いか。俺はゆっくり玄関へ向かい、扉を開けた。
「はいはーい」
「あ……あの」
俺は目を丸くした。そこには、すげぇ綺麗な女の子が立っていた。誰だろう……知らない娘だ。
「あの、ここに猫来てませんか?」
「……へ?」
彼女は少し涙目で、真っすぐに俺を見つめた。
* * *
チビすけの本当の名前は、レオンというらしい。彼女は、チビすけ──レオンの飼い主なんだそうだ。
「昨日から、レオンが帰ってなくて。それで、近所の方からレオンは日曜日にはこちらに来ているって聞いて……」
「……なるほど。で、俺の所にも来ていない、と」
俺は頷きながら言った。彼女はしょんぼりと俯く。まるで、置いていかれた子供のように不安げな表情だった。一人で、淋しいのだろうか。怖いのだろうか。
──そんな顔しないでほしい。
俺はただそう思った。
「──……探しましょう」
「え……」
今度は彼女が目を丸くする。俺自身、口から出た言葉に驚いていた。でも、立ち上がる足はとまらない。何気なく下に目をやり、自分がまだ寝巻なことに気付く。
──かっこわりぃ……。
「あ、あの……?」
「着替えてくるんで、外で待ってて下さい」
オドオドする彼女に、俺は力強く笑った。俺だって、チビすけが心配だ。
* * *
それから、二人で街を歩き回った。建物の間を覗き込んだり、魚屋を訪ねてみたりした。公園も回った。猫の集会所には、野良猫しかいない。人に聞き回っても、返ってくるのは同じ返事ばかりだった。暖かい場所──河原にも行ってみたけど、猫って水嫌いだったっけ。来てみて気付いた。
「いねーなぁ……」
「──はい……」
「落ち込まないで! えーっと……」
そういえば名前を聞いていない。俺は言い吃る。
「浅田です。浅田美保」
「あ、俺は須藤元気です。よろしく……」
とてつもなく今更な自己紹介に、二人で小さく笑った。会ってから、もう何時間経ったのだろう。昼飯もまだだし……6、7時間くらい経ったか。その割に、チビすけは見つかってないけど。
「──もっと遠くに行ってみようか。猫って意外に行動範囲広いからさ。……できれば腹拵えをしつつ」
「……はい。そうですね」
浅田さんは小さく笑う。不安の拭いきれていない瞳で。
* * *
昼食も済ませ、俺達はまたチビすけ探しを再開した。最近、日が落ちるのが早い。暗闇がすぐそこまで迫ってきていた。
「茶色の猫? 見てないねぇ」
「……そう、ですか」
「あれじゃないの? よく猫って死期が近づくと姿を消すっていうじゃない」
──これだからおばさんは嫌いだ。余計なことをベラベラと。
「ありがとうございます。行こう、浅田さん」
「あ……」
俺は浅田さんの腕を引っ張り、歩きだす。浅田さんは下を向いている。表情は見えないけど、予想はつく。その瞳は、悲しみに満ちているんだろう。
「大丈夫だよ。あいつのことだから、どっかで昼寝してんだ」
「──はい」
声が暗かった。きっと、無理して笑っている。俺は、横を歩く浅田さんの頭を小さく叩いた。ポンポン、と音が鳴る。女性と接する機会が無いから、どう慰めればいいのか分からない。
「こんなに浅田さんが想ってんだから、帰ってくるよ。……だから……えっと…………元気、出して」
頬を掻きながらボソボソと言う。浅田さんは、震える小さな声で、言葉を紡ぎだした。
「レオンが……赤ちゃんの頃から、ずっと一緒なんです。ずっと、大切にしてたんです。皆、レオンのこと可愛がって、レオンはもう家族なんです……。帰ってこないなんて……初めてだからっ……。どうしよう、どうしようっ……! レオンに何かあったら、わたしぃっ……!」
瞳から、涙が溢れだす。大切なものを想う気持ちが、涙となって。
「──……俺ん家の近くに、交番があるんだ。行ってみようか」
2、3回頭を叩くと、俺は小走りをした。彼女もそれについてきている。どこに行ったんだよ、クソ。
* * *
交番に向かう途中も、浅田さんはずっと俯いていた。元気づけてあげたい。だけど、チビすけが見つからないことには──
「あいつのことだ、きっとひょっこり現れるって!」
『ニャー』
「そうそう、そんな風にニャーって……あ」
「レオン!」
声の先──俺の足元に、奴はいた。茶色でふわふわな毛を風になびかせ、真っすぐに俺達を見上げていた。薄暗いので、奴の瞳は金色に光っている。
──本当にひょっこり現れやがった……。
浅田さんは、びっくりして呆けている俺をよそに、チビすけに抱きつく。
「どこ行ってたの! 心配したんだからぁっ……!」
『ニャ?』
チビすけはゴロゴロと喉を鳴らし、浅田さんに甘える。浅田さんはそれに応えるように、強く、だけど優しくチビすけを抱きしめた。そんな様子を見ていたら、何だか俺の顔も綻んでいた。
チビすけには負けたな。彼女を一瞬で笑顔にしちまうんだから。
「須藤さん、ありがとうございました……あっ!」
浅田さんが小さく叫ぶ。チビすけが浅田さんの腕から抜け出し、俺の足元に擦り寄ってきた。
──……可愛い。
「この子、すっかり懐いちゃったみたいですね」
「……だな」
「えと……いろいろご馳走になってたみたいですし、今度お詫びします!」
「え? いや、いいって……」
「駄目です! 今日のお礼も兼ねて! ね?」
そう言って浅田さんは笑った。俺に向けての、初めての笑顔。
──う?
心臓に違和感を覚える。何だ、これは?
「来週、また伺ってもいいですか? この子も一緒に!」
「──うん」
「……ありがとうございます!」
月が顔を出す。明るく照らされた彼女の笑顔がやけに綺麗に見えるのは、月のせいだということにしておこう。
……日曜日の楽しみが、また増えた。
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