第33話 もう一人のエインセル①
記憶……? 私に記憶がないことを、この人は知っているようですね。
いえ、もう確信を込めて、言い当てていらっしゃいます。そしてこの女性の馴れ馴れしい、
「あなたは、何者なんですか?」
私は記憶がないことを知らない人に即答するのが怖くて、彼女にそう尋ねました。
彼女の細く吊り上がった黒い眉毛が、片方だけさらに吊り上がり、その不敵な笑みに、ますますの胡散臭さを添えました。
「やっぱり記憶がないようだね。まぁ、それを覚悟で禁忌に挑んだのは、あんたなんだけどね」
彼女は、非常にもったいぶった長いため息をつき、それがわずかに私をいらだたせました。
「あたしの名前は、エインセルだよ。あんたと同じ名前で、あんたと同じような役割を持って生まれた妖精さ。イセラなんて愛称を付けてくれた人間は、いなかったけどね」
「エインセル……」
「光の乙女、選ばれし妖精、その『エインセル』だよ。まさに特別な存在、そして最も過酷で辛い運命を辿りやすいのも、あたしらさ。現に今、あんたはその運命の真っ只中にいる。どうだい? 身を粉にして人間の笑顔を守ろうとして、幸せにはなれたかい?」
黒いアイメイクに囲まれた目が、真っ黒になっている街のほうを一瞥したのを、私はしっかりと捉えていました。この人はわかっていて、私に尋ねたのです。この人、とは言いましたが、厳密に言えば妖精です。ですが、どうにもスラッとした長身が人間っぽいので、私はこのまま「人」と呼ぶことにしますね。
その人の挑発的な質問に、私は、悔しさを飲み込んで返事をしました。
「ご覧の、通りですが」
「ふふ、だろうね。だからあたしゃ反対したんだよ、あんただけの力じゃ、限界が来るってね」
「私まだ、あきらめきれません」
当時の私は、あきらめないことが王子への忠誠の証のように、思っていました。
「まだできることがあるはず……だから、大きな体になってでも、ここに留まっているんです」
「その様子じゃ、自分が何をすべきなのかがわかってるみたいだね」
……いえ、わかっていませんでした。いえいえ、本当のことを言うと、うっすらわかっていたんですけど、考えるのも実行するのも恐ろしい事だったっていうか、勢いつけても足がすくんでしまうような、そんなことをしなければならないんだって、わかってしまっていたんです。
花屋さんは、私と王子の共通の宝物である「花」を、綺麗な形に作り直してくれました。その花屋さんの他に、あともう一人だけ、王子を支えてくれていた女性が――私と王子にとって共通の、「大事な女性」が、まだお城に残っています。
その女性を、機能停止させるなんて。誰が代行しても、一生涯ものの大罪となりましょう。
だから当時の私は、考えないようにするあまりに頭から選択肢ごと吹っ飛ばしていたんでしょうね。
さすがにこの人も、私の頭の中までは見通せなかったようで、全て私が理解できた前提で話を進めていきました。
「周りが決意を抱けないのならば、抱いたあんたがやればいいのさ。それで居場所を失ったら、今度こそ逃げちまいな」
「……」
「あんたも、人間と結ばれなかった妖精のうちの一匹だった、ただそれだけさ。何も特別なことじゃない。人間とあたしらが共存できないのは、当たり前のことなんだよ」
悔しい、ですね……涙が、流したくないのに、じんわりと滲んで、溢れて、止まりません。
私ならできると……再び王子を笑顔にできると、信じていましたから。
ひとしきり声を上げて、私は泣きました。前が見えなくなるほど、泣きじゃくりました。私は王子のために花すらも贈れない、優しい言葉も励ましになる行動も、何一つしてあげられない存在になってしまい、悔しくて悲しくて、ただただ泣いていました。
この人はきっと、そんな妖精を何匹も見てきたんでしょうね。私が泣き止むのを待つ間、とくに慌てた様子も、立ち去る様子もありませんでした。
「イセラ、一緒に来て街を案内しておくれ」
「街で、何をなさるつもりなんですか」
「ここいらの自然のためだよ。あんたが泣くほどやりたくないってんなら、あたしが掃除してやろうってんだ。あんたたちにとっちゃ大事な土地でも、じわじわ広がっていく瘴気にゃ、みんな迷惑してんだよ。ちゃっちゃと片付けなきゃ」
「そんな、散らばったオモチャを片付けない子供を叱るみたいに……」
自分の大事なモノを、小さな道具に例えられると拗ねてしまいそうになります。反発しそうになります。そして今その感情の全てを相手に訴えても、全く届かないこともわかってしまっていて、腹立たしさを飲み込んで耐えることしか、できない状態でした。泣きすぎて、疲れたせいもあります。言葉での戦いは、当時の私には、もう無理でした。
また泣きそうになっている私に、彼女はさすがに呆れ顔になって、鼻を鳴らしました。
「あたしは、依頼されて来たんだ。あのバカな孫をなんとかしてやってくれ、ってね」
「祖父からですか?」
「あんたの生死は問わないそうだよ」
「…………」
祖父から家族の縁を切られていたとしても、意外には思いませんでした。むしろ絶縁されていて当然かも、しれません。以前のこの場所は、私たち妖精がたくさん住んでいる綺麗な場所でしたから。
それはそれは……綺麗な場所でしたから。
「一つだけ、答えてほしいんですけど」
「なんだい? 記憶なら、戻すのは無理だよ」
「……ずいぶん、禁忌について詳しいんですね」
女性がニヤリと口角を上げるのを、私は見逃しませんでした。
「私と王子に、禁忌の魔法を教えたのは、あなたなんですね」
「そうとも言えるし、違うとも言える」
なんとも曖昧な返事をしながら、彼女は街の入り口を封鎖する王子の鎖を、節くれ立った木の杖でコツコツと二回、叩きました。
「あたしが雇われたのは、今回で三回目なのさ。一回目は、この土地の秘密を知った連中から大金を積まれて、破壊してこいって指示を受けてね。二回目は、崩壊の止まらないこの街を、少しでも元通りに近づけたいっていう、哀れな王子様と妖精ちゃんに、頼まれてね」
「私たちが、あなたを雇った?」
「ああ、そうだよ。それで三人で考えて編み出したのが、あの硝子の棺を使った禁忌の応用さ。昔からある禁忌だったけど、材料が足りなくてね、いろいろなガラクタで代用したのさ。王子様に聞いてみな。あたしの名前に覚えがあるはずだ。その場しのぎの付け焼き刃みたいな魔法だから、いずれは無理が祟って崩壊する、だからあたしは一回目と二回目の依頼を同時にこなしたってわけだ。そして、三回目は、今日だ。あたしは破壊も修復も、そして片付けも、全部まとめて早急に今日で終わらせに来たってわけさ」
「修復を、終わらせに……」
「この街を元通りにする魔法なんて、誰も持っちゃいない。何もしなくても、いずれ崩壊し、直しても直しても崩れて、後片付けは大勢でやる運命なのさ……。そもそも、最初から歪なこの街に、元の姿も正しい在り方も、存在しないからね」
「王子は悪くありません。この国と思い出を守りたくて、ずっと行動し続けてきたのに、どうしてこんな……こんなに傷つかなくてはならないんですか」
「誰も悪くないさ。この街を作ったヤツだって、家族の幸せのためになると思って、そうしたんだろうしさ」
彼女が杖で叩いた鎖の、一つ一つの輪っかが、互いの手を離すようにボロボロと崩れていきました。
「夢の終わる時が来たんだ。誰かが、掃除しなくちゃ。お前にその覚悟がないんなら、木の上に戻って二度寝してな」
「いいえ。もうあなたの力は借りません」
私はまだ涙の残る目を拭い、ヒリヒリするまぶたの刺激に、むしろ目が覚めたと感謝しながら、彼女を強く見据えました。
「私が、やります!」
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