第二章

第11話   僕のイセラ

 鳥籠を操って、前進し続ける私の目の前には、黒ずんだ街並みが……カビでしょうか、それとも、なにか良くないモノのたぐいでしょうか、当時の私には、すぐに判別を付けることができませんでした。


 建物という建物の柱が腐ってボロボロです。ですが、なんだか、これらに見覚えが……? でも、そんなはずは、ありません、だって、私は最近まで、この街に遊びに来ていたのですから。


 街には、誰もいません。家の中にいるのでしょうか? なんだか、気分が悪くなってきます。


 当時の私は、ようやく気がつきました。ただよう黒いモヤは、強い瘴気しょうきだったのです。


 え? 瘴気をご存知ないと。えーっとですねぇ、我々妖精にとっては、長く吸っていると呼吸困難に落ち入り、羽が抜け落ちて、絶命してしまう、毒物ですね。


 人間や猫さんにとっても、良くないものですよ。性格が悪くなったり、怒りっぽくなったり、気分が沈んだり、なにをやっても不愉快に感じるようになったり。


 話を戻しましょう。美しかった街並みは、今やその面影むなしく、瘴気によりむしばまれ、色という色を失っておりました。


 たった数日で、木々の柱は腐り落ち、洗濯竿に干された衣類は茶色く染まって取り込まれず、住民は消え失せ、地面には雑草の一本も生えてはおりませんでした。灰色に乾いた大地からは、命の気配を感じないのです。


 とても生き物が住んでよい場所ではありません。


 それはまさに、戦争の跡地。私には戦争を目撃した経験はありませんが、祖父が一度だけ、遠巻きに眺めたことがあると、言っておりました。そのときに聞いた話と、当時の私の目の前に広がる大事件が、限りなく近い状況だったのです。


 私たち妖精は、繊細な生き物です。蝶や花びらが舞うステキな場所でないと、生きていけません。それでも祖父が、戦場にいたのは、仕えていた人間の王子様が、戦争の指揮を執っていたからでした。


 私は王子の身を案じましたとも。あのナゾの青年と一夜を過ごしていた間に、城下町がこんなことになってしまったなんて、信じられませんでした。


 鳥籠を操り、周囲の景色を眺めているうちに、私は泣きました。鳥籠の床で、独り、王子のお顔が見たいと、突っ伏して泣きました。


 その泣き声を聞きつけて、駆けつけてくれた人がいました。


 あの青年です。


 彼は、かける言葉も見つからないとばかりに、ただ、鳥籠を抱き寄せて、おでこをくっつけて目を伏せておりました。


 彼も、悲しんでいたのです。


 このとき、私と彼の心が、繋がりました。私と彼は、ようやく会話することができるようになったのです。


「イセラ……」


 すがるように、名を呼ばれました。


「僕のイセラ……」


 私には、誰かの所有物になった記憶はありません。ですが、亜麻色の長い髪の青年が――声を詰まらせて悲しむその姿が、シリル王子なのだと、私に気付かせてくれました。


 すっかり雰囲気が変わってしまいましたが、彼が、私の捜していた王子だったのです。


 悲しみの再会です。


 私は彼を支え続けて、ともに過ごした記憶を、失っていました。それは猫さんと会話している今でも、戻ってはおりません。


 それでも、はっきりと、自負できるのです。私はきっと、どんな時でも、王子を励まし、慰め、ともに苦難を乗り越えてきたのだと。


 ……ですがね、猫さん、このときの私は、王子と初めて言葉を交わすのです。王子がここまで大きくなるまで見守っていた記憶が、無いのですから。


 雰囲気も別人のように変わってしまいましたし、ほぼほぼ初対面のような、でも仲の良い知人という、なんとも形容しがたい関係性を踏まえて、頭が混乱した私が、どうやって気の利いた言葉をおかけできるでしょうか。


「王子……です、か?」


 そう尋ねるのが、やっとでした。当時の私にとっては、この第一声が、記念すべき初めての会話。王子にとっては……思い出を失った親友との、再会なのでした。


 おつらかったでしょうね……。もしも私が逆の立場だったら、悲しみのあまり錯乱して、王子を鳥籠ごと崖から放り捨ててしまったかもしれません。


 愛する人から忘れられた乙女の絶望をたとえるならば、これが一番妥当でしょう。逆じゃなくて、本当によかったと思います。


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