第35話 意趣返し

 ルイカはされるがままに暴行を受けた。言うまでもなく耐え難い事だったが、これをやめてくれと言う資格は自分には無いのだという思いの方が、ルイカには深刻だった。

 この記者に対して、他のプレイヤー達に対して、なによりもアザミに対して。


「あ、う……や、……めェッ、へェ……」


 もはや情けなく、手振りでやめてほしいと示すばかりで身をよじることしかできない。


 なんと無様な姿だろうか。


「な、なぁ……さすがにちょっと待ってくれよ。こんなのは意味がねぇ。それよりも聞いてくれねぇか? オレたちにも」


 見かねてこのことだろう、意を決したかのように中年が声を掛ける。しかし、その話が終わるよりも先に、記者は半実体の矢をスマホから射放った。


「――――ぐ、うッ!? ぅぅぅ……ッッッ!!」


 くぐもった声を漏らして中年の痩躯は崩れ落ちた。一瞬何が起こったのかわからないかのように自分に突き立ったものを確認し、そして崩れ落ちたのだ。


 信じられない。――と、言葉にはせずともその顔に書いてあった。ルイカも同感だ。するとは言っていたが、まさか、まさか本当に躊躇もなくやるなんて。


「ちょっと、おじさん!」


 自分が流した血の中にうずくまる中年に着ぐるみが寄り添った。見下ろす記者も止めろとは言わなかった。


 不覚にもルイカはそれが勇気ある行動のように見えた。自慢の――いや、自慢かどうかは知らないが、とにかく熊の着ぐるみが血にまみれるのも構わず、彼女は横たわる中年をあお向けにして、なんとか傷を押さえようとする。


 血を止めようというのか? しかし、どうしようもないように思えた。中年の右わき腹に突き立っていた半実体の矢は既に消失しており、そこには深い穴だけが残され、血を溢れさせている。


 生理的に直視をためらわせる穴だった。そこから黒い血があふれてくる。不覚だが、詰まってしまった排水管か何かをルイカは思い浮かべた。


 何かが逆流して、本来出てくるべきでないところから汚水のあふれる様のようだと思ったのだ。


 逆流だ。生命の逆流だ。本来流れるべき場所とは、逆に流れだしてしまっている。取り返しがつかない。もうダメだ。もはや、どうにも。


 見ているだけでわかった。もう助からない。あんなに血が出ていては……。


 着ぐるみだけが何とかしようと手を動かしているが、ルイカは動けず、マツリカもただ蒼い顔でそれを見ていることしか出来ていない。


「おっといけない。言っちゃなんですが、あなたみたいな年増をなぶっても面白くないですからねぇ? なぶるなら若い男ですよねぇ。――ってちょっと下品かしら?」


 けらけらと軽薄に言って、記者はルイカに向き直る。


「ま、こんな状況ですしねぇ? 無礼講ですよ無礼講。――とはいえ、いけませんね。私がやっちゃダメでしたね。私、意趣返しするつもりだったんですよ。ダメですねぇ。こう、いざとなるとテンパっちゃって」


「意趣返……し!?」


 ルイカはその言葉をおうむ返しに繰り返す。その行動には何の意図もない。もはや主人の命令を待つ奴隷の心境だった。鞭打たれようが、罵倒されようが耐えるしかなく。死ねと言われれば死ぬしかないのだ。


「そうですそうです。あなた方は自分の手すら汚さずに私たちを殺し合わせてたんですもんねぇ~。それを私がパパッとやり返したんじゃあ割に合いません」


 おてても痛いですし。と、そう付け加えて、記者は棒立ちになっているマツリカを初めて見据えた。


「アカシルイカくん。アナタね、その子を殺してください」





「殺し……なん、なんでそんな……」


 ルイカは虚ろに問い返す。対する記者は「なにを言っていいるのだ? しっかりしろ!」と言わんばかりの勢いでルイカの両肩を叩きつつ押さえつける。


「言ったでしょうが!? 意趣返しですよ意趣返し。同じことをするんです。あんたたちと、同じことをね! 殺し合いをさせて、私は高みの見物。これがいいんじゃないですか! ね!?」


 記者は――目をさらのようにして間近にルイカを覗き込んだ。異様な視線だった。瞳孔は開き、もはやその瞳が何を見ているのかを推し量ることはルイカにはできなかった。


「私たちがされたことで、アナタたちがやったことですよ? しっかりしてくださいよ。ホラホラ。ハリーハリー。時は金なりですよッ」


 囃し立てる記者に押し出され、ルイカは幽鬼みたいな顔でマツリカを振り返る。当然、無理に決まっている。子供だ。小学生だ。それをどうして。ついさっきまで繋いでいた手の柔らかさを覚えている。温かさを知っている。


 確かに瑞々しく生きている。それを、――いったい、どうしろって?


「当然、しないなら君をもっと痛めつけますよ?」


 記者はスマホから新たに取り出したらしいアイテムを見せつける。


 ちらちらと照明に照り返るそれ。サブアイテム・サイドアームのひとつ『サバイバルナイフ』だった。


 サイドアームの中ででは最も弱い武器だとされている。効力も使い方も見た目相応だろう。誰の目にも明らかだ。


 だが、今はそれが殊更に恐ろしい。


 間近で見るそれはプラスチックのおもちゃのような質感に見えた。金属製ではないせいか刃物であるという実感は薄い。


 しかしルイカはとうにそれが人を殺傷しうるに十分すぎるほどの代物であることを知っている。


 ルイカは身体の芯が凍りついていく感覚を覚えた。想像の何百倍も怖い。


 弱武器のナイフなど、ゲーム上ではさほど気に留めるほどのものでもないものだった。


 だが、現実は違う。目の当たりにするそれは、刃渡り20センチ超のそれは、これまでの人生で見たことがないほどに恐ろしいものに見えた。


「おやおや十分すぎるぐらい理解は出来てるみたいですねぇ? そうコレです。痛いですよぉ? さぁ、ルールは簡単です。その子を殺しなさい。やらないなら――」


 震えるルイカの内側を見透かすように言って、記者はさも当然のような気軽さで、ルイカの身体に切れ目を入れた。


 ルイカは悲鳴を上げなかった。上げれなかった。痛みに反応するよりも先に、その恐怖から嘔吐したのだ。今や恐怖こそが彼の主だった。 


「こうやってアナタを切り刻みます。シンプルですよね? 解りますよね? じゃあどうぞ」


 斬られたのは頬の辺りだった。記者はさほど力も籠めず、ひっかくようなやり方でルイカの横っ面を張ったのだ。


 それでバックりと顔が切り裂かれた。端正な造形の顔面がぬるりとした血に染まっていく。


 きっとたいした傷ではないのだろう。だがもはや傷の大小の問題ではない。こんなことを実行する人間が目の前にいることがルイカには何よりも恐ろしかった。


 怖い。恐ろしい。逃げたい。逃げなければ。――本能の絶叫に任せて、ルイカはよろよろと歩きだす。


 いつの間にか、この広間の端にまで後ずさっていたマツリカへ向けて、歩み寄る。


 殺すこと自体は――さほど難しくないだろう。両手で首を絞めればすぐに終わるはずだ。


 やり方は難しくない。後は実行するだけだ。


 しかし、そこで不安げに見上げてくるマツリカと視線が合った。怯えというよりも、むしろこんなにも情けないルイカを、案ずるかのような視線で。


 ルイカはに見覚えがあった。



 ――母さん!



 ルイカを心配そうに見つめる母の視線。そっくりだった。目元が、ああ、こんなにも。


 そう思うと、もうダメだった。


「出来ません。……お願いです。出来ません。……できません」


 ルイカは白雉はくちのような口ぶりで繰り返した。


 反吐を吐き、血を流し、そのうえボロボロと涙を流して――まるで頭からドブにでも突っ込んだようなありさまで、記者へ繰り返す。


 懇願とか要求とか、駆け引きとか言うのではない。


 ただ事実として出来ないから、それを報告するかのような、そんな言葉だった。


「あっそ。……困った子ですねぇ」


 応答は刃物だ。解っていた。でも出来ないものは出来ないのだ。


 ルイカはヨタヨタと逃げ惑いながら刃物を受ける。逃げようにも周囲はエネミー達に塞がれている。


 記者は幼児が鬼ごっこでもするかのようにルイカを追い詰めては、無邪気に刃物で突きまわす。


 自分でもなぜかわからないが、ルイカは声をあげなかった。代わりに、ルイカが切れ目を入れられるたびに、マツリカが引きつるような悲鳴を漏らした。


 高価なブランド物の衣服が見る見るうちに血に染まっていく。




「もうッ! もうやめてくださいッ終わりにしてくださいッ。……お願いします。もう……もうぅぅぅッ」


「情けない子ですねぇ~」


 白いプラスチックのようなサバイバルナイフは、紅い霜でも降ったかのように血まだらに装われていた。


 深い傷は無い。命に別状はない。だがルイカにはもう無理だった。


 もうやめてほしかった。


 ルイカは崩れ落ち、頭を下げて懇願する。床に額をこすりつける。とにかく、もう終わりにしてほしいと。


「ん~、上手くいきませんねぇ。私がやっちゃダメなんですよねぇ……」


 ルイカの哀願をさておき、記者は小首を傾げて思案する。――いや、思案するふりをしているかのように、その視線は依然として嗜虐の愉悦に染まったままだ。


「仕方ないですねぇ。ここは暴力よりも言葉でアナタを揺り動かしましょう。おお、なかなかじゃないですか私」


 崩れ落ちて震えるだけのルイカに記者はそっと耳打ちしてくる。


「その子はね? 将来的にキミの脅威になるかもしれない相手なんですよ? 解ってます?」 

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