第84話 宿命
楓と戸高は、東東京大会の準決勝で対戦していたのだ。
対戦成績は、3打席3三振。
楓のシンカーに、戸高は手も足も出なかった。
これまで順風満帆な野球人生を送ってきた戸高は、彗星の如く現れた同学年の女子選手に、完全に抑え込まれたのだ。
しかし何も学ばなかったわけではない。3打席の中で、楓のクセを少しずつ読み取っていた。
次の打席こそは、と意気込んで打席へ向かったが、マウンドに楓の姿はなかった。
試合の結果、葛西学園は戸高にサヨナラ逆転満塁本塁打を浴び、敗戦した。
だが、試合に勝利した戸高は釈然としなかった。
試合後のインタビューでも、煮え切らないような、憮然とした表情のまま受け答えをし、監督に後できつい説教をされた。
それでも戸高の思いは変わらなかった。
楓と再会したとき、本当は心躍る思いだった。
入団会見の日に楓から声をかけられたときは、驚きと異性への免疫のなさが邪魔して受け答えなどすることはできなかったが、本当は楓の球を受けられる喜びを伝えたかった。
再び対戦することは叶わなかったが、今度は捕手として楓とバッテリーを組める。
自分が完全に抑え込まれたあの変化球で、今度はプロ野球の打者たちを翻弄するのだと思うと、期待に胸が高鳴った。
ただ、戸高には納得いかないことがあった。
楓が、中継ぎ投手としてしか活躍できないことだ。
プロ野球の花形は、先発投手だ。先発し、最後まで完投して相手チームを抑え込むことが、投手として何よりの誉れとされる。
そして次に注目されるのはクローザー。どんなピンチでも颯爽とマウンドに登り、チームを勝利に導く。
それに比べると、中継ぎ投手にスポットが当たることは少ない。セットアッパーと呼ばれるようになり、ホールドポイントという評価指標が生まれたものの、まだまだ主役と呼ぶにはほど遠い役割だ。
中継ぎ投手は試合の中盤で荒れたマウンドに上がり、勝ち試合ではクローザーに華を譲りつつ、負け試合では試合を壊さぬよう必死に耐えながら投げる。その姿は、美学と呼ぶにはあまりに過酷である。
戸高はプロに入ってから、楓がどれほど努力してきたかをさらに目の当たりにした。
そして、体力に限界がある女子選手という弱点ゆえに、中継ぎ投手としてしか活躍の場を見いだせないことを知った。
そのことをおくびにも出さず、楓は毎日天真爛漫に野球に打ち込んでいる。
はじめは、自分を打ち取った投手をリードしてチームを日本一にすることで、自分の野球人生をさらに上のステージに高めるくらいの気持ちだった。
だが、戸高の思いは、いつしか大きく変わっていた。
(立花楓を、勝利の瞬間にマウンドに立たせたい。できれば、リーグ優勝や日本シリーズ出場のような、注目の的になる瞬間に。)
戸高はいつの間にか、楓の野球に対する姿勢に完全に魅せられていた。
男子だけのチームでは、体格差などはあれど、皆条件は同じだった。
だが、性別という大きな条件の違いを背負い、先発にもクローザーにもなれる可能性はなく、負荷ばかり大きな中継ぎという役割をただ淡々とこなし続ける野球人生は、どれほど苦しいのだろうか。その人生をあれほど楽しそうに生きられるのは、なぜだろうか。
――立花、君はどうして、そんなに野球と真剣に向き合えるんだ?
その問いの答えは、楓に尋ねるのではなく、楓と勝利の瞬間にマウンドで向き合うことでしか分からない。
そのことを戸高は分かっていた。
◆◇◆
さらに戸高は、ホワイトラン監督に詰め寄る。
「ことの重大さは分かっています。血行障害の危険性も。でも、立花独りに投げたい思いを……最後に立っていたい思いを飲み込ませるのはもう嫌なんです。」
血行障害は悪化すれば血栓が移動し、心筋梗塞などを併発するリスクがある。放置するだけでも危険だが、さらにこの場面で投球するなど愚策中の愚策だった。
合理的な思考しかしない戸高がこの言葉を続けるのは、普通に考えれば乱心としか見えないだろう。
「この試合だけでいい。今日だけは、ウィニングボールを立花にとらせてやってください。」
ホワイトラン監督は少し考え込むと、ゆっくりと口を開いた。
「君の体のことは、君が一番分かっているはずだ。」
戸高ではなく、楓に話しかける。戸高はそれをじっと見守っている。
「どうなんだ?」
戸高の考えが、楓にはしっかり伝わっていた。
「私に、最後まで投げさせてください。」
ホワイトラン監督の目をしっかりと見て答えた。
「もしも体に異変を感じたら、必ずこちらへ知らせなさい。」
楓の表情が変わるのを待たずに、間髪入れずに言葉を続けていく。
「どうしても投げるなら、指先を温めて血行を上げる必要がある。時間稼ぎには限界があるが、できる限りのことをしよう。それから、こちらから見ていて明らかに危険だと感じたら、そのときは容赦なく交代を命じる。いいね。」
そういうと、
「それから――」
ようやく戸高の方に向き直る。
「君の判断は間違っている。そういう考え方は二度としないように。これは助言ではなく命令だ。逆らえば二度と君を試合で使うことはないだろう。」
先ほどよりもさらに低い声で告げると、最後にこう付け加えた。
「それでも続投させるのは、私個人の判断だ。いいね。」
戸高の助言だとフロントが知れば、戸高はドルフィンズでの野球人生を終えることになってしまうかもしれない。それを配慮しての言葉だった。
「ベンチへ来なさい。時間がない。」
そう言うと、ホワイトラン監督は楓を伴ってベンチへ引き上げていった。
《立花選手、治療のため、しばらくお待ちください。》
場内の巨大モニターに中断の理由が表示されると同時に、場内はざわついた。
血行障害を短時間でも緩和させるためには、患部を暖める必要がある。単なる応急処置のための時間では到底足りない。
ホワイトラン監督は、瞬時にあらゆる策を講じた。
場内にアナウンスが流れる。
《ドルフィンズ、選手の交代をお知らせ致します――》
守備固めと称して、ベンチの控え選手をすべて出場させ、レギュラーメンバーをベンチに下げた。控え選手たちが守備位置につき、キャッチボールなどをして体を温める時間を使って、さらに時間を稼ぐ。
これにより、主軸メンバーは全員ベンチに下がることになる。仮に楓が同点弾を浴びたりすれば、再度リードする可能性はゼロに等しかった。
明らかに愚策としかいえない交代采配に、球場はさらに大きくざわついた。
ホワイトラン監督は、さらに交代を告げる際、選手の名前を言い間違えてみせた。元々記憶力は恐ろしいほど良い男である。自分のチームの選手の名前など、間違えて覚えるはずはない。
しかも、言い間違えた後、通訳とのやりとりがギクシャクして、訂正に時間がかかっているさまを演出する徹底ぶりだ。
さすがにそのわざとらしさに業を煮やした主審が、これ以上同じ間違いを繰り返せば監督を退場させると警告する有様だった。
ホワイトラン監督がその警告に、慇懃に眉を下げながら謝罪する仕草を何度かした直後だった。
「お待たせしました!!」
左手を挙げながら楓がベンチから飛び出してくる。
その指先に血色が少しだけ戻っているのは、ホワイトラン監督の位置からでもよくみえた。
楓がマウンドに着くやいなや、審判から「プレイ」の声がかかる。
タイタンズの5番は、今日スタメンで出場している小山田。昨年までブリュワーズの中軸を打っていた右の強打者だ。安易な配球は命取りになる。
楓は大きく息を吐いて、戸高のサインを覗き込んだ。
(インコースに、ストライクになるカエデボール。)
付け焼き刃の応急処置がいつまで持つかは分からない。
はじめから出し惜しみをしている余裕などなかった。
楓は「分かってるよ」とメッセージを伝えるようにゆっくりと頷くと、いつもより少し慎重に足を上げてボールを投じた。
指先の感覚は、相変わらず全くない。
だが、体が覚えている一つ一つの感覚を再現しながら指の位置や弾くタイミングを探っていく。
上半身を深く沈み込ませたアンダースローのフォームから、腕が浮き上がるように弧を描く。ここまではいつも通りの感覚だ。そして肘から先を一気に振り上げてリリースする瞬間、ボールはまったく感覚のない人差し指と中指だけに触れた状態になる。
楓は体に染みこんだリズムに頼って、指先を思い切り弾くよう、脳から命令を出す。
まるで他人のもののように感覚のない指が、ボールからの離れ際に命を吹き込んでいく。
美しい左回転をかけながら、真っ直ぐとボールは打者の方へ走っていった。
打者の手元でボールはいつものように急減速し、膝元のストライクゾーンに吸い込まれていった。
小山田は手が出ないといった様子で見送り、審判の右手が挙がる。これでカウントは0-1だ。
マスクの向こうで、戸高が安心したように大きく息を吐くのが分かった。
小山田に悟られないよう、「ナイスボール!最高だ!」と今日一番大きな声を出しながら返球する。
次に戸高が要求したのは、アウトローへの小さなシンカー。これが決まってカウント0-2。
1球アウトコースへのストレートを挟んで、カウント1-2。遊び玉を挟むのは肝を冷やすが、次のボールを活かすためには仕方がない。
小山田の表情を覗き込みながら、満を持して戸高が決め球のサインを出す。
(アウトローへ、ボールになるスクリュー。)
まるでこれまでの楓のシーズンを総決算するような配球だった。
ゆっくりとセットポジションに入った楓の脳裏には、スクリュー開発に向けた日々が次々に想起されていく。
『時間がないのはわかるけど、もう少し説明してほしかったよ……。』
『それは……ごめん。でも、俺自身も懸けてるんだ。このチャンスに。』
これは新球種・スクリューを身につけるために合宿に向かう直前の会話だ。
そういえば、このとき戸高は「チャンス」と言っていた。当時は戸高にとっても出場するための「チャンス」なのだと思っていた。
しかし、今は違う。
楓が試合の最後まで、マウンドに立つためのボールを獲得するための「チャンス」だと分かった。
今思い返せば、いつも戸高は楓という投手をどう活かすかを考えていた。
そしてそれは、ただ打者を抑えるためだけでも、チームを勝利に導くためだけでもなかった。
楓が試合の最後にマウンドに立っていられる瞬間を、ウイニングボールを手にする瞬間を迎えるためにはどうすればよいか。それを常に考えてのことだった。
戸高の思いをしかと受け取って、楓はゆったりと足を上げて投球フォームに入る。
これまでの日々、戸高が独りで重ねてきた、立花楓という投手への思いを自分の指先に込めて、感覚のない指先を思い切り弾いた。
◆◇◆
何分にも感じるような、実際は一瞬の沈黙の後――
ミットから取り出したボールを手に、戸高が駆け寄ってくる。
そして楓の左手にウイニングボールを渡すと、楓の膝あたりを両腕で抱えて、高々と持ち上げた。
楓も両手を天高く上げ、喜びを爆発させる。
2人の歓喜を彩るかのように、内外野とベンチから一斉に選手やスタッフが駆け寄ってくる様子は、ドーム球場の天井カメラから捉えると花びらが舞うように見えた。
湘南ドルフィンズ、実に球団史上2回目の日本シリーズ出場を決めた瞬間だった。
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