第83話 哀しき不文律
「どうした?!」
ベンチを飛び出し、マウンドの周りにできた円陣の中にホワイトラン監督が飛び込むなり尋ねた。
だが、楓は曇った表情のまま自分の手のひらを見つめたままだ。
「一体……」
そこまで言いかけたが、さらに尋ねる必要はなかった。
楓の人差し指は血の気が引き、真っ白になっていた。
ホワイトラン監督には、その場所がちょうどシンカーを投げる際、最後に指を引っかける部分だとすぐにわかった。
「立花、指の感覚は……?」
戸高も完全に察した様子で、楓に尋ねる。
「大丈夫です! 投げれます!」
その言葉が強がりであることは、誰が見ても明らかだった。
「正直に言いなさい。状態は?」
ゆっくりと、しかし真意に迫るホワイトラン監督の口調に怖じ気づいて、楓は口を割る。
「実は、上尾さんの最後の2球あたりから、あんま感覚がないです……。」
バツが悪そうに、しかし力なく楓は答えた。
「血行障害――」
誰もが口のするのを恐れた言葉を発したのは、ホワイトラン監督だった。
血行障害。プロ野球選手であればこれに悩まされるものも多い。
鍛え抜かれた肉体のポテンシャルを限界まで引き出した力で強く腕を振ると、血管を流れる血液にはそれだけ強い圧力がかかる。それを何度も繰り返して行うことで、いつしか指先の毛細血管の収縮が限界を迎え、血栓が生じる。その血栓が血液の流れを阻害し、指先の血行障害を発生させるのだ。
楓はこれまで華奢な肉体を目一杯につかって、最大限のスピードボールを投げてきた。一般的な女子の体格で130km/h近いボールを連投し続けることは、並大抵のことではない。
さらに、楓は数多くの球種を持って打者を翻弄する技巧派投手だ。多彩な変化球を投げ分けるために、指先にかかる摩擦や圧力は尋常ではないはずだった。
これはドルフィンズに入ってから負荷が挙がったことだけに起因ものではない。これまでの野球人生で積み重ねてきた楓の努力が、少しずつ、少しずつ彼女の血管を蝕んできたのだった。
「でも、まだ投げられます!」
「それは私が判断することだ。」
楓との押し問答が続いたが、ホワイトラン監督はあきれたような顔になって、楓に話すのをやめた。そして、決意したような表情をすると、楓の目から視線を外した。
故障は野球選手である以上、必ず伴うリスクだ。起きてしまったことは仕方がない。
ホワイトラン監督は、すぐに投手を交代させるため、指示を送ろうとベンチの方に翻った。
「嫌です!!」
声の主は楓ではなく、戸高だった。
楓は自分が言おうとした言葉を先に言われてしまい、まごまごと口を半開きにしている。
その言葉を代弁するように、戸高が続ける。
「あと1人――あと1人なんです。立花に投げさせてください。」
「君は、自分のエゴで、1人の投手を完全に破壊しようというのか?」
ホワイトラン監督の言葉は脅しではなかった。珍しく威圧するような口調で戸高にすごみながら、言葉を続ける。
「君が立花と2人で創り上げた変化球で試合を終わらせたいという、その捕手のエゴで、投手生命を危機にさらすのか? さすがにそのレベルの思考をするようなら、私も君を起用したこと自体を反省せねばならなくなる。」
言葉は攻撃的であったが、その内容は何一つ間違ってはいなかった。
控え投手をほとんど出していないこの試合で、楓を続投させることは監督としても愚策中の愚策だ。
「でも……」
珍しく戸高の歯切れが悪い。
言葉の続きを待たず、ホワイトラン監督が間髪入れずに退路を塞ぐ。
「たしかに谷口を代打ですでに使ってはいるが、ランナーがいない状態でボールをとるなら他の野手にもできる。今の君の精神状態を考えると、君の起用続行はその策にすら劣るぞ。」
その言葉を受けてもなお、戸高は何か言いたそうにうつむいたままだ。
ホワイトラン監督としても、このまま戸高に冷静に戻ってもらい、捕手として出場してもらうのが最善策であることは明らかだ。それを促すべく、今度は口調を柔らかにして説得しようと口を開きかけた、そのときだった。
「これじゃ何も変わらないんだ!」
円陣の真ん中で、今度は戸高がホワイトラン監督にすごんでみせた。
「誰にも分からないと思う。監督に分かってもらう必要もない。もしかしたら、立花にだって分からないかもしれない。でも、立花は――立花楓は、この試合を締めくくらなきゃいけないんだ!」
戸高はそう言うと、さらにホワイトラン監督の方に歩み寄って言葉を続ける。
「立花はいつだってそうだ。こういう時だけ聞き分けがよくなって、肝心なときに後悔する選択をする。」
自分の心の中を完全に見透かされた楓は、ただはっとした顔で戸高を見つめるだけだ。
戸高は、今度は楓の方に向き直った。
「そうやって最後にマウンドに立っていることを、いつも諦めるのか? 自分は女子選手だからって、男の引き立て役のまま終わるのか?! 大学でだって、好きでセットアッパーをやってたんじゃないことぐらい、俺の頭には入ってるんだ!!」
円陣を作った選手たちには何を言っているのか分からなかったが、楓にだけははっきりとわかった。
そして、あの日の出来事が昨日のことのようによみがえった。
◆◇◆
5年前。
うだるような暑さの中、テレビ中継からアナウンサーの実況がこだまする。
《ベスト4まで駒を進めた葛西学園、1点リードした最終回で今大会注目の女子投手、立花楓が捕まりました。》
高校3年。最後の夏を迎えた楓擁する葛西学園高校は、ベスト4まで勝ち進んだ。
しかし、女子選手が激戦の東東京大会を投げ抜くには、その日程はあまりに過酷であった。
決勝戦まであとアウト1つまでこぎ着けたが、2死満塁。
普通の高校野球ならエースと心中する場面だ。
《ここで葛西学園は投手交代……ですね。2年生・吉岡がマウンドに呼ばれます。》
女子選手にはたぐいまれな才能と、男だらけの家庭環境で努力してきた楓だったが、彼女の前にいつも立ちはだかったのは体力という壁だった。どうしてもここぞという場面で、スタミナが続かない。
先発しても、リリーフしても、結局最後までマウンドに立っていることはできなかった。
男子だけのチームなら、体力が尽きてもエースを続投させるのかもしれない。
しかし、楓が毎回交代の憂き目に遭うのは、女子だからに他ならなかった。
監督としても、「体力のない女子選手を無理矢理続投させたから負けた」と言われては、沽券に関わる。ましてや女子選手に無理をさせては、あとあと問題にもなりかねない。
まだ女子選手の参加が極めて珍しかったという時流もあったのかもしれないが、「男社会である野球の世界で、女子選手に無理をさせてはいけない」というのは不文律だった。
翌年は葛西学園のエースに、と嘱望される吉岡がマウンドに上がると、実況アナウンサーがさらに続ける。
《ここまで投げた立花投手、まさにあっぱれと言っていいでしょう!》
女子選手が奮闘する様子は、まだ珍しいだけに華がある。
実況アナウンサーも楓の奮闘を称え、場内からのあふれんばかりの拍手を浴びて、女子高生・立花楓はベンチへ下がる。
そして帽子を取って、何かを諦めたような儚げな顔でタオルを頭に掛けると、試合の行く末ではなく地面を見つめたまま物思いにふけっている。
楓は学生時代、交代した後いつもこの仕草をしていた。
最後まで投げられないふがいなさなのか、女子だからと特別扱いされることへの無言の抗議なのか。誰もそれに言及することはなかった。
楓がベンチに下がった後、実況のテンションがさらに上がるのが分かった。
《吉岡投手は140km/h台を投げる速球派ですが……迎えるバッターを考えると荷が重かったかもしれません!》
逆転のチャンスを迎えて、名勝負が訪れたからだ。
《ここで迎えるバッターは、本大会の本塁打記録にあと1本と迫っています。今日は3打席3三振といいところがありませんが、そろそろ一本が出るか? 最後の夏を迎えた四番――》
少しもったいぶってから、その名を呼ぶ。
《高校球界屈指のスラッガー、戸高一平!》
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