第82話 勝負の時
太田にとって、今シーズンこれほどプレッシャーがかかる打席があっただろうか。
日本シリーズ決定戦の9回裏、1点ビハインド、1死走者なし。
この状況でもスタンドが大きく揺れ、割れんばかりの声援が自分に注がれる理由は明らかだった。
いままでの野球人生でも、こんな打席は度々あった。しかし、ファンは決まって諦めムードだった。
どうせ打てなくても非難は浴びないし、契約にも影響しない。いつも通りにシーズンを最下位で終えても、契約更改のときに渡されるのは少しアップした年俸と、「来年も期待している」の一言だった。
太田は場内に自分の名前がコールされるのを聞きながら、ネクストバッターズサークルで何度もバットに滑り止めのスプレーをかけた。
FA移籍1年目――高額な移籍金と年俸を支払ったタイタンズが、自分にどれほどの期待をしているか、痛いほど分かっていた。その“期待”は、親が子に向けるような温かいものではなく、「応えられなければ明日はない」という冷徹なものであることも。
プロである以上、金額に見合った活躍をすることは、いわば契約で縛られた鉄の掟だ。
それは自分だけでなく、すべての野球選手に宿命づけられている。その厳しさを自分自身にも刻み込み、そして後輩にも教えてきた。自分の分身のようにかわいがってきた、最愛の愛弟子・田村翔一に対しても。
(まったく、人の気も知らないで――)
こんなときに自分ではなく他人の心配をしてしまうのは、根っからの性分だろうか。
自分が抜けた後、本当はドルフィンズを出たことを少し後悔した。だが、田村が堂々とドルフィンズの四番に座って活躍する姿を見て、太田はもう自分の戻る場所はないことを悟っていた。
いささかの後悔を打ち消したのは、最愛の愛弟子が自分をしのぐほどの活躍をし、自分の戻る場所を奪ったという事実だ。太田は、その事実をうれしくすら感じていた。
そんなことを考えながら自嘲気味に唇の端を少し上げると、太田は悠然とした様子で打席に入る。
その様子に漂うのは、「王者の風格」そのものだった。
思わず息をのんだ楓は、聞こえるはずのない唾液をゴクリと嚥下する音が太田に聞こえるような気がして、思わず喉元を押さえた。
太田は三塁方向をちらりと見てから、バットをゆっくりと揺らしながら構える。グリップエンドが完全に見えなくなるほど長く持った様子から、その狙いは明らかだった。
(完全に一振りで試合を振り出しに戻そうってわけね。それならこっちだって……。)
先ほどまで気圧されていた楓の内心に、闘志の炎が再び燃え上がっていく。
「一発狙いのスラッガーとの勝負」は、楓にとっても慣れ親しんだシチュエーションだ。
当たり前だが、女子選手である楓の体は華奢で小さい。球速も遅いし、ボールは当然軽い。強打者と楓が対戦すれば、当然のように皆が長打を狙ってくる。
そういう打者を変化球できりきり舞いにさせてやるのが、楓の本来の持ち味だ。
(あなたもそのやり方でドルフィンズの四番を勝ち取ったのかもしれない。でも、私だって、このやり方を曲げるわけにはいかないんだ!)
そう強く念じて無意識にユニフォームの胸元をぎゅっと握ってから、楓は戸高のサインを覗き込んだ。
(アウトコースへ、ボールになる“カエデボール3号”)
さっそく新しいシンカーを要求してきた。
楓の生命線だった大きなシンカー、カエデボール。そして戸高と二人で開発したスクリュー、カエデボール2号。そのネーミングをダサいから、と何度も変えるように促したのに変えなかった理由を、戸高は知っていた。
「太平洋大学の小屋野監督に――カエデボールの名付け親に、進化したこのボールを見てもらおう。大丈夫、打たれない。」
戸高がこう言っている気がした。初球に新球種を要求する戸高の指元からメッセージが伝わってくる。
楓がゆっくりと投球モーションに入ると、戸高の足下にも力が入るのが見て取れた。
どんな大きな、予想外の変化をしても、きっと受け止めてくれる。
その確信を指先に込めて、楓はリリースの瞬間まで思い切り指先を弾いた。
打者の方へ真っ直ぐ糸を引くように伸びたボールは、その直前で急減速してアウトローへ吸い込まれていく。そこから反比例の数式を描くグラフのように、さらに変化の度合いを上げる。
すでにスイングのモーションに入っていた太田も柔軟なリストを使って下方向へアジャストしようとするが、ボールは嘲笑うかのように下をかすめてバットを交わして着地する。
そこへ待ってましたとばかりに、ショートバウンドしたボールを戸高のミットが受け止め、電光掲示板のストライクカウントに数字が入った。
こんな自信に満ちあふれて高揚した顔の楓をみるのはいつぶりだろう。
返球する直前に戸高が見つめたその表情は、捕手としてのアイデンティティを思い出させるものだった。
そう、これだ――!
俺がずっと追い求めていたのは、この感覚なんだ、立花。
自然とボールを投げながらかける「ナイスボール!」の声もさらに大きくなる。
(さあ、今度は?)
次のサインが待ちきれないといった様子で、すぐに楓は戸高のサインを覗き込んだ。
(アウトコースへ、ストライクになるカットボール)
今度は右打者の外から中に入るボールを要求してきた。
楓は速球でストライクを取りに行くのを悟られないよう、さらにゆったりとしたモーションからボールを投じる。
このフォームの緩急を交えた駆け引きは、大久保から教わったものだ。
ドルフィンズに来てからも、チームメイトたちが楓に力を与えてくれた。その選手たちが積み重ねてきた歴史も、楓の1球1球に魂を吹き込む息吹となって、力を与えているようだった。
カウント0-2となってから、もう1球アウトコースへ、カウントを整えるカーブを挟む。
(インコースに、ボールになるカエデボール3号)
満を持して再びこのサインが出る。
楓にとって、分かっていても打てないボール――ウイニングショットの獲得は悲願だった。そのボールを、ようやく戸高と二人で手入れることができた。
遠足の当日を迎えた子供のような、期待を隠しきれないといった顔で頷くと、今度は大きく足を上げてモーションに入る。
さも「全力投球の速球」を予期させるような大きなフォームから放たれたボールは、再び打者の方に真っ直ぐと向かっていく。
そして打者の手元で急ブレーキをすると、今度はインローに吸い込まれるように進路を変える。ここまでは初代カエデボールと同じ軌道を描くため、ここからストライクになるかボールになるか、打者には分からない。
2ストライクまで追い込まれた太田は、当然手を出すしかない。スイングのフォームに入った。
そしてバットが動き始めるのを待っていたかのように、ボールはさらに大きく弧を描いて地面へと向かう。
しかし、そのボールを追尾するように、太田のバットもまた角度を変えた。
「――!!」
楓が息を飲んだ瞬間、ボールはバットに捉えられていた。
元々指にかかりすぎたことを応用した変化球である。バットに当たると、回転数が多い分、大きく反発してボールは天高く舞い上がった。
レフト方向にぐんぐん伸びていき、そのままスタンドに吸い込まれていった。
ベンチで見守る希も唇を強くかみしめたまま、ボールの行く末を見つめるしかできない。
だが、場内を包んでいた歓声がすぐにため息に変わるのを聞いて、希は再びはっとなった。
三塁塁審が大きく手を広げている。
「楓は?! 大丈夫?!」
当然である。こんな大飛球を打たれては、普通の投手なら動揺を隠せないはずだ。
慌てて楓の方を見た希は、唖然とするしかなかった。
楓は、笑っているように見えた。
この状況で、まさに太田との勝負を楽しんでいるかのように、目がキラキラと輝いている。
そして受ける戸高も、楽しそうにミットを拳でバンバンと叩くのが見えた。
このボールで打たれたらしょうがないという覚悟なのか、それとも絶対に打たれないという自信なのか。2人の真意は周りからはまったく推し量れないものだった。
しかし、これだけは確信できた。
この勝負に水を差してはいけない。
球場全体が、勝負の行く末を固唾をのんで見守っていた。
戸高のサインを確認して、楓は今度も首を振ることなくしっかりと頷く。
再び足を上げて投じたボールは、カエデボール1号だった。
前回の球筋が残っていた太田は、思わずこれを見逃す。
主審の右手が高々と挙がり、再び監修は大きなため息を漏らす。
上尾と太田を打ち取り、ついにアウト1つのところまでこぎ着けた。残すは5番打者ただ1人。
戸高が少し安心した様子で数歩マウンドに歩み寄り、楓にボールを返す。
ベンチの一同もようやく胸をなで下ろして、乗り出していた体を再び背もたれに委ねた。
しかし、戸高の様子がおかしい。
慌ててまたマウンドに駆け寄ると、鬼気迫る様子でタイムをかけた。
内野陣も慌ててマウンドに集まる。
スタンドやベンチからは詳細をうかがえないが、楓の表情が曇っているのだけは確認できる。
気がつけば、ホワイトラン監督自らマウンドへ駆け出していた。
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