第81話 リベンジ

 戸高はこの打席、とりつかれたようにカエデボールのサインを出した。


 初球ストライクを取った後、2球目のストレートを外してカウントを整えると、インコースとアウトコースの低めいっぱいのところにカエデボールの連投を要求した。しかも構えるコースは、ボールの上3分の1をストライクゾーンにかすめる超ギリギリのコース。


 さすがに楓も毎回ここに投げられるというわけではない。適度にボールが散らばると、ファウルと見逃したボール球の積み重ねで、あっという間にフルカウントになった。


 しかし、それでも戸高はカエデボールの連投要求をやめない。


 目が慣れてきた上尾が膝をたたんで前回のホームランの再現を試みるが、打球はすべてファウルボールになっていた。それはひとえに今日の楓の調子が、前回とは段違いに上であることを表していた。


 ボールが力なく内野スタンドに落ちるたびに起こっていたタイタンズファンのため息も、同じ球種の連投と上尾のフルスイングの連続という意地の張り合いに、次第に完成へと変わっていく。


 同じ球種を投げ続けることは、投手にとって大変な恐怖を伴う。


 「裏をかく」という選択をはじめから捨てているのだ。


 しかし、楓には恐怖心はなく、懐かしい気持ちで満たされていた。


◆◇◆


「だから、くさいコースにしか投げない。大学時代の立花さんは、コーナーへのコントロールや投げ分けが抜群に正確だった。だから、ギリギリゾーンをかすめるコースを狙っても、2回に1回はストライクが取れると思う。昨日見た卒業直前の試合でも、投げた7回のうち6回を除いては、そのレベルのコントロールができていた。キャッチャーのミットの動きを見る限りね。」


「戸高くん……そこまで私のVTR分析してくれてたの……?」


「まあ……それなりには……。」


「よし、わかった! なんか準備の仕方がキモいけど、その作戦乗った!」


「ええ……。」


◆◇◆


 シーズンの開始前、まだ楓と口をきくことすら憚っていた戸高と交わした言葉が、楓の脳内によみがえる。


 あのときから、私のボールを活かすことだけを考えてくれてたよね。

 力がないボールで強打者を打ち取るには、コースで勝負するしかない。同じ球種なのも、きっと何か考えがあるんでしょ?

 野球サイコパスの戸高くんのことだから。


 そんな思いを込めてカエデボールを低めに連投する。


 きわどいコースへ連投するため、時折ボール球になるコースへカエデボールが沈むこともあるが、上尾としても2ストライクと追い込まれている手前、当てに行くしかない。


 結果的に、8球中7球がカエデボールという配球のまま、フルカウントで楓は9球目を投じようとしていた。


(孤高の天才・戸高さん……さすがにそろそろ失投しそうなんですが……)


 そう思いながらも妙に落ち着いた表情で、楓は戸高のサインを覗き込む。


(インコースに、ストライクになる、カエデボール)


 楓は小さくため息をつきながらセットポジションに入ると、決意に満ちた目で戸高のミットを睨む。


(もうここまできたら君と心中するって決めたんだからね。私のカエデボール、戸高くんに預ける!)


 そう念じながら、しっかりと腕を振ってボールを投じる。

 ワンポイントという役割をこなしてきただけあって、1打席が長くなっても全力投球はお手の物だ。


 今回もカエデボールはインローのきわどいところに決まりそうになったところで、上尾のバットにカットされた。ボールは転々と1塁側に転がっていき、再び満員のタイタンズファンから歓声が上がる。

 この性別を隔てた意地の張り合いが、今シーズン最大の名勝負であることを、監修も十分に分かっているのだ。


(いい加減に折れてよ! こっちだって好きで付き合ってるんじゃないんだから!)


 そろそろ指先が少し痺れてきた楓が恨めしそうに上尾を睨むが、目を合わさずに平然とホームベースを見つめ、ストライクゾーンを確認している。

 今度は助けを求めるように戸高を見ると、マスク越しに鼻をぽりぽりとかくのが分かった。

 野球に関してはサイボーグのように緻密で、隙を見せない戸高だが、リラックスしているときにたまにみせる仕草だ。こういうときの戸高が決まって悪巧みをしていることは、気心知れた相棒にだけはお見通しだった。


(あいつめ……前振りが長いんだから。)


 すっかり自分が追い込まれている状況なのを忘れてニヤつきそうになるのを必死にこらえながら、楓は今一度サインを覗き込む。

 そして満足そうに頷くと、先ほどとまったく同じフォームで実に10球目を投じた。


 今度はアウトコースに大きく逸れそうになったボールが、上尾の近くで急ブレーキをかけ、ストライクゾーンに吸い込まれるように変化する。

 当然のように上尾はカットしに来る。こうなれば甘い球が来るまで徹底的に根比べをしてやろうというつもりのようだ。


 しかし、次の瞬間、ボールはバットをよけるかのようにさらに大きく変化すると、ワンバウンドして戸高のミットに収まった。

 信じられないと言った様子で呆然と立ち尽くす上尾に、戸高は急いでタッチする。


 スコアボードのアウトカウントの欄に、数字が灯った。


 スタジアムが大きなため息に包まれた。


 マウンド上の楓はかみしめるように小さくガッツポーズをみせた。狙い通りといった様子だ。

 一方の戸高はすました様子で、内野陣に人差し指を示してアウトカウントを告げていた。


◆◇◆


「え? なに?! 何ですか今の?!」

「わからん! わからんけどなんかすごかった!」


 ベンチでは大勝負を目にした希と高橋が、野球少年少女のようにはしゃいでいた。

 何が起こったか分からないが、手品を見たような様子でいる


「本当にやるとはね……もう私の野球理論の外にいるのかもしれませんね。」


 沸き立つベンチの中で一人だけ冷静だったホワイトラン監督が口を開く。


「どういうこと?」


 その場にいた全員の頭上にあった?マークの意味を代弁するかのように、希が尋ねた。


「新球種ですよ。」


 ホワイトラン監督はウインクしながら結論だけ告げると、さらに言葉を続けた。


「2試合前、彼女は自らのシンカーで自滅した。指のかかりが大きすぎた軽いシンカーでね。変化の大きい決め球なだけに、調子が悪いと暴走するんですよ。いわば、彼女のシンカーは暴れ馬のようなもの。長年に渡って変化を抑え込むすべを身につけ、体のコンディンションを整えてやっと投げられる代物。私たちもドラフトの時そこに目をつけた。」


 そこまで言って、ホワイトラン監督は大げさに頭を抱えてみせる。


「しかし、その大きすぎたシンカーを、立花楓という投手は自分の切り札に変えてみせたんです。さらに大きな暴れ馬を完全に制御して、変化の大きな『第3のシンカー』をたった1日で完成させた。戸高と2人でこそこそ何かやっていると思ったら、こんなことを……。」


 そして、グラウンドに目を戻すと、愛おしそうですらあるまなざしを向けてつぶやく。


「もうここまできたら、私には見届けることしかできませんよ。」


◆◇◆


「OK、よくやった!」

「いくらなんでもこわすぎたけどね。寿命縮んだよ。」


 マウンドに駆け寄った戸高とハイタッチを交わすと、楓はいつも通りの軽口を叩いた。

 やっと左の上尾を打ち取った。


 ここで左のワンポイント・立花楓はお役御免――のはずだ。


「次からは、いつも通りのリードでいくぞ。」

「あったりまえだよ! こんなん続けたら心臓が足りなくなっちゃうよ。」


 いたずらっぽく笑う楓が、ホームベース方向へ戻る戸高の背中を見送る。

 ホワイトラン監督の最後の秘策は、ここにあった。

 オープナーで山内を起用する代わりに、楓をクローザーにしようというのだ。


 河本コーチが言った「リベンジ」の意味は、上尾との対戦のことだけではなかった。


 シンカーで打ち取れなかった相手を同じ球種で打ち取るという、自分の限界へのリベンジ。

 太田にリードで読み負けた戸高が、今度は楓とのコンビで打ち勝つというリベンジ。

 そして、複数回を投げることを諦め、ワンポイントに徹さざるをえなくなった経験へのリベンジ。


 CSは泣いても笑ってもこれが最後。

 すべて納得いくまで精算してこいという、ホワイトラン監督の賭けであり、親心だった。


 楓がマウンドを降りないことに気づいた観衆がどよめく中、次の勝負の合図がコールされる。


《バッターは、太田――》


 悲願の日本シリーズまで、あとアウト2つ。


 楓がまだ見ぬリリーフのマウンドが続く。

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