第80話 相棒
「よおし! 戸高、よくやった!」
「まったく最高だよお前は!」
ベンチに戻った戸高をチームメイトたちは手荒い歓迎で迎え、なかなかプロテクターをつけさせてもらえなかった。
「しっかし、あの場面であのスライディングとは、考えたね!」
その様子を見かねて、レガースを差し出しながら話しかけたのは希だ。
こういうときに、やはりメインで試合に出なかった“女子選手”時代の気遣いが光る。
「俺はね、わりと根に持つタイプなんだよ。」
このセリフが気に入ったのか、戸高は希に向かっても言ってみせた。
「うん、そうだね! 知ってる!」
天真爛漫に返す希を見て、戸高は少しむすっとしながら防具を受け取った。
「最終回、頼んだよ。」
希の言葉と一緒に防具をすべて受け取って装着すると、戸高は無言で、しかししっかりと目を見て頷いてからベンチを出た。
最終回、最初のバッターは左の上尾からだ。その後は太田以降、右打者が続く。
足を踏み出した先では、聞き慣れたアナウンスが戸高を迎える。
《ドルフィンズ、ピッチャーの交代をお知らせ致します。ピッチャー、神田に代わりまして、立花。ピッチャーは立花、背番号98。》
前の対戦で、楓は上尾から3ランホームランを打たれている。
それでもホワイトラン監督がワンポイントに送り出した理由は、楓にも戸高にもわかりきっていた。
「第3のシンカー」で、上尾を討ち取ること。
2人の使命は明確だった。
◆◇◆
「よーし! 文句なし!」
ベンチからブルペンに足を運んだ谷口は、楓のボールを捕球して思わず叫んだ。
「すげえな若者。一日休むとこんなに球が走るのか。」
半ばあきれ気味に言う。
「そりゃもう、マウンドに飢えてますから。」
楓が明るい口調で言うのは、前日に投げられなかったからだけではない。
1点差で、日本シリーズまであとアウト3つ。
ここで前回本塁打を打たれた上尾と対峙するのだ。空元気であることは誰の目からも明らかだった。
「緊張するか?」
谷口は直球で聞いた。
「ええ……まあ……」
思わぬ問いに、楓も口ごもる。
「でも――」
そう言って顔を上げると、これまでの思い出がよみがえる。
鳴り物入りで入った新人との合同自主トレ、いきなりのセットアッパー起用、連投疲労からの痛打、新球種の開発。すべてが昨日のことのように思い出される。
史上最弱の球団と言われたドルフィンズが、そして女子選手である自分がここで投げられるのは、決して自分の努力だけではなしえなかったことだ。
「“相棒”が待ってます。」
顔を上げて、谷口の目をまっすぐ見る。
谷口もそれに応えるように、目を合わせて頷いた。
「立花、リベンジだからな。」
河本コーチも声をかける。
こうして送り出されるのも、すっかり慣れた光景だ。これまで積み重ねてきた一つ一つの“当たり前”が、楓の心を落ち着かせていく。
「分かってます。」
河本コーチが「リベンジ」といった意味を、楓もしっかりと受け止めていた。
ブルペンからベンチを抜けて、3塁側からグラウンドに入ると、まばゆいばかりのカクテルライトとオレンジ一色のスタンドに、ドルフィンズリードを示す電光掲示板。そしてグラウンドに目を移すと、ネクストバッターズサークルには、ドルフィンズ不動の四番・上尾。
本当はその背中を見ると打たれた光景を思い出し、足がすくみそうになる。
そんなとき、楓は決まってマウンドをしっかりと見つめる。
視線の先には、いつも通りの仏頂面で戸高が待っている。
戸高と目が合うと、楓は少しだけ小走りになって3塁線をまたいだ。
「大丈夫か?」
マウンドに着くと、戸高は最初にそう言った。
「任せなさい。」
楓は不敵に笑ってグラブを差し出す。
戸高もそれに呼応するようにマスクの奥でニヤリと笑うと、
「温存すんなよ! 飛ばしていくぞ!」
グラブにボールを乱暴に放り込みながら言った。
◆◇◆
《タイタンズ、9回裏の攻撃は、3番・キャッチャー、上尾。》
上尾の名がコールされると、これまで聞いたことのないような大きな歓声が、地鳴りのように後楽園ドームを揺らした。
それもそのはずだ。
前回の対戦で改心の3ランホームランを打った相手との対戦を、ドルフィンズ自ら演出したのである。
しかも打者は上尾。タイタンズファンたちは半ば同点弾を確信したかのような熱狂ぶりだった。
「ま、そうなるよね。」
楓は珍しくいじけたように口を尖らせると、周りをぐるりと見渡して言った。
そしてもう一度戸高の方に向き直る。
戸高はグラブをぽんと一度叩くと、大きく両手を拡げてみせた。
そう、楓が緊張したときは、いつだって戸高はこうしてきた。
「どんなボールでも受け止めてやるから、思いっきり投げてこい」という声が聞こえるかのような、頼もしい構え。それができるのは大学野球でならした名捕手だからというだけでなく、プロ7球団競合のスーパールーキーだからでもない。
「投手・立花楓をリードし、打者を抑えるのはこの自分だ」という決意の表れだ。
楓の心は穏やかだった。
このポーズを見ると、どんなアウェイな環境でも、いつだって落ち着くんだ。
いつも野球バカどころか野球サイコパスで、データオタクで、野球のことになると周りなんて見えなくなって……カエデボールが打たれたときだって、いきなり一緒に二軍に落ちて新球種を開発するとか言い出して。いつだって戸高くんは無茶苦茶だった。
でも、戸高くんのミットに投げていれば、どんな逆境だって乗り越えられた。
たしかに前回、シンカーを上尾さんに打たれたかもしれない。
だけど、戸高くんのミットをならす声が、私にはこう聞こえるんだ。
「大丈夫だ」って。
何かを決意したように口を真一文字に結んでから、楓は戸高のサインを見た。
サインを出しながら、戸高の口が動いたように見えるが、楓には読み取れなかった。
(インコースに、ストライクになるカエデボール)
そうだよね、戸高くん。
このマウンドのテーマはリベンジ。
(打たれたボールで勝負しなきゃ、女がすたる!)
心持ち少し大きく足を上げて、楓は初球から決め球を投じた。
◆◇◆
「お前らも懲りないよな。大事な大事な女投手を潰す気か?」
マウンドを見つめたまま上尾は戸高に話しかけた。
「そんな自分にプレッシャーかけて大丈夫すか? これで打てなかったらクソダサいっすよ。」
マウンドを見たまま答える。
戸高にとっても、この喧嘩は買わないわけにはいかなかったのだ。
大学時代から、上尾は戸高が目標としてきた捕手だった。
投手の特徴を押さえた堅実なリード、投手の精神面をコントロールする人心掌握術、野球を知り尽くしているからこそ出せるここ一番の勝負強さ、そして自らの手で投手の援護を成し遂げる打撃力。
何もかもが捕手として完成されており、今となっては悔しいが尊敬していた。
だが、戸高にとって今の上尾は“敵”だった。
上尾のような、現代プロ野球のレベルそのものを向上させるような選手にとって、女子選手の存在やその台頭が目障りなのは、なんとなく想像がついた。
だが、自分と楓は実力で勝利を勝ち取ってきたという自負が、戸高にもあった。
そして何より、立花楓という投手がいなければ、自分自身がここまで活躍できなかったかもしれないという思いから、投手・立花楓の否定はいつしか戸高自身の否定になっていた。
なぜそんなに楓を敵視するのかは分からない。
しかし、そんなことはどうでもいい。
戸高にとって、この勝負が絶対に負けられないものであることだけは確かだった。
戸高はそれを脳内で反芻すると、迷わずに初球カエデボールのサインを出した。
◆◇◆
左打席の上尾から見て、ど真ん中にうち頃の速度のボールが向かう。
そして、打者の手元で急減速すると、一気に膝元へ落ちる。
それを上尾は悠然と見送った。
審判の右手が挙がる。
電光掲示板のストライクの表示に数字が追加された。
上尾は、少し意外そうな顔でミットの位置と審判の顔を交互の見た。
それを見て、戸高はこれ見よがしに、
「オッケー! ナイスボール!」
とこれ以上ないほどの声を出しながら楓にボールを返す。
これが戸高の上尾に対するリベンジ開始の合図だった。
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