第85話 史上最弱の下剋上

《ついにやりました! 湘南ドルフィンズ、球団史上3回目の日本シリーズ出場!》


 選手やコーチングスタッフが一斉にベンチから飛び出す。

 その背中を押すように、力強い実況アナウンサーの声がバックネット裏から全国へこだました。


《その歓喜の中心にいるのは立花楓! 9回裏のマウンドはタイタンズのクリーンナップを三者連続三振! ドルフィンズに日本シリーズをもたらしたのは、この華奢な左腕でした!》


 楓のシーズンを振り返っても出来過ぎだった投球内容も大いに称えられる。

 ドルフィンズが日本シリーズに出場することも、女性投手が試合を締めくくることも、日本球界にとっては極めて珍しいことだった。


《シーズン開始当初、このチームが日本シリーズに出場するなど、誰が予想したでしょうか。まさにハレー彗星よりも長い周期で、歓喜の瞬間が訪れました!》


 念のため補足をしておくと、ドルフィンズが前回日本シリーズに出場したのは27年前なので、ハレー彗星よりも長い周期というのは言い過ぎである。

 しかしドルフィンズファンにとっても、球団関係者にとっても、それほど長く感じられる日々であったことは間違いないだろう。


「大丈夫か?」


 戸高は何事もなかったかのように歓喜の表情で楓を持ち上げた後、自分の顔がカメラの死角に入るのを自覚してからこう尋ねた。


「うん……相変わらず、指の感覚はないけど。」


 思わず冷静な表情に戻りながら、楓が答える。

 楓の血行障害が周囲に発覚すれば、日本シリーズや今後のシーズンにも差し障る。各球団とも楓のハンディを突いた作戦を立ててくるだろう。

 それを避けるために、戸高は歓喜の様子で楓を持ち上げながら尋ねたのだ。


「ありがとう。戸高くん。」


 歓喜の渦の中、楓は冷静なまま戸高に言った。


「こちらこそだ。だから……」


 そう言って隣の選手をチラリと見る。


「よし! 胴上げだ!」


 キャプテンの新川が声をかけると、楓を囲んでいた選手が一斉に楓の体を持ち上げた。


「へっ?! いや、聞いてない聞いてない!」


 皆に担がれながら動揺する楓だったが、暗黙の儀式が止まることはなかった。


「こんな瞬間、俺たち誰も体験してないからな! そりゃ聞いてねえよ!」


 嬉しそうに新川が叫ぶと、楓の体が宙に舞う。


 1回、2回、3回――監督以上に軽い女子選手の体は、実に6回も宙に舞った。

 本当は楓の体重ならもっと回数が増えていたであろう。胴上げ回数の日本記録である11回も超えていたかもしれない。

 しかし、それを制止したのも戸高だった。

 楓の左手を心配しながら、ちょうど左手が落下する場所で待ち構え、適度なところで体に負担がかからないよう制止するつもりで待機していたのだ。


 たった6回だったが、プロ野球選手の中でも選ばれた者しかできない経験をした楓の気持ちは格別だった。

 このときばかりはジェットコースターで絶叫するような女子らしい声を上げながら宙を舞っていた楓だったが、下ろされてふとある事実に気づく。


「戸高くん、私、胴上げ投手になっちゃったよ! どうしよう……!」


 楓の様子を見て、まだ心配そうに見ていた戸高もつい苦笑いしながら答える。


「今頃気づいたのかよ。日本シリーズを決めた瞬間にマウンドにいたのは立花なんだから、当然だろう。」

「私に、これをさせるために……?」


 歓喜の輪の中にそぐわないような素朴な顔をして、楓は尋ねた。

 戸高は珍しく、いたずらっぽく楓に笑いかけると、


「さあな!」


と言って今度は監督を輪の中心に引きずり出した。


 今度はホワイトラン監督の体が中に何度も舞う。

 1回、2回、3回――現役を引退しても骨太で筋肉質の肉体は、楓よりも少ない5回宙に舞った。


 選手たちが再び歓喜の雄叫びを上げ、キャプテンの新川や四番打者の田村が胴上げの餌食になる中、戸高はその輪の外に楓を連れ出した。そして記者たちの目を盗んで、そそくさとダグアウトへ引っ込む。


「ちょっ、今度はなに?」


 さっきから振り回されっぱなしの楓が、少し不満そうに尋ねる。

 戸高もせっかくの親切に不満顔で返されたのが不服だったのか、顎をしゃくって楓の左手を示す。


「あ――」


 本人もすっかり気分が高揚して忘れていたが、楓の指先から再び血の気が引いている。

 それもそのはずである。指先は応急処置を施しただけだ。ましてやさらに小山田に対して続投したのだから、悪化しているのは自明の理である。

 ダグアウトに待ち構えていたトレーナーに連れられて、楓はそそくさと病院へ向かう。


「戸高くんは? 戻んなよ! せっかくの日本シリーズ出場だよ。こんな体験、なかなかできない。」

「いや、俺は立花と一緒に病院に行く。」

「は? なんで? 相変わらずキモいんですけど!」


 入団した頃のノリで楓に返されて、戸高はますます不満そうな顔で押し黙った。

 これまでならそのまま戸高が引き下がる流れだったが、


「まあ、その――ありがとう。」


楓の一言が、戸高の同行を許した。


◆◇◆


《まずは、選手たちに感謝したい。諦めずに戦う、本当に良いチームになった。我々はチャレンジャーだ。この勢いに乗って、このまま日本シリーズも制覇したい。》


 通訳が流暢にホワイトラン監督の英語を訳す。

 きっと彼には通訳した日本語が適切かどうか、脳内で即座に採点できているのだろう。


 病院の待合室で、戸高はベンチに座りながらタブレットで優勝記者会見の様子を見ていた。

 この後の祝賀会まで楓と二人で欠席しては、楓の故障が疑われる。大事をとったという体で記者会見のみ欠席して、祝賀会から二人とも参加する算段になっていた。


「待たせたな、マネージャーくん。」


 夢中で画面に見入る戸高に、おどけた様子で楓が話しかける。


「で、どうだったんだ。」


 楓のボケに一切取り合わずに、戸高が聞く。


「まあ――普通に? 血行障害だって。」


「それは分かってる。 悪いのか? また投げられるのか?」


 楓がばつ悪そうに答えるのも察さずに、戸高はまくし立てた。


「また休めば投げられるってことか? いつだ? どのくらい休養は必要だ?」


 さらにまくし立てる様子は、芸能人のスキャンダル会見のようだ。


「もう、うるさいなあ! 私だってショックなんだから、自分のペースでしゃべらせてよ!」


 ショックという言葉にはっとなって、戸高は息をのむ。


「で、どうだんたんだ……?」


 今度は慎重な口調で、ゆっくりと聞いた。


「一応、投げられるって。」

「一応?」


 思わずまた身を乗り出し、今にもまくし立てそうな様子で聞き直す。


「要所で3日に1回、1人の打者になら、オッケー。」


 努めて明るく言う様子が、切なさをかき立てる。


「それって……」

「うん、ワンポイントなら投げれるってこと。」


 楓が最後まで投げられる投手でいたいのは、ずっとわかっていた。

 だからこそ、楓を胴上げ投手にしてやりたかった。

 それが、立花楓という投手を、マウンドで仕事を終えた後にふと見せるあの儚げな顔から解放してやれると思ったからだ。


「俺は……」


 戸高は病院のベンチに座ったまま、両膝を抱えるようにうなだれた。


「俺が、立花を……ワンポイントに戻しちまったっていうのか?」


 うなだれたまま、奥歯をかみしめたような声を出す。


「立花……すまない……。」


 戸高は、泣いているように見えた。

 決してそのまま顔を上げないであろうその様子が、何より戸高の非痛感を物語っていた。


 楓は何もせず戸高の背中を見つめる。

 時間外の薄暗い待合室に設置された古時計の秒針が、一定のリズムで時を刻む音だけがしばし流れた。


「違うよ。」


 自分の背中にそっと手が触れる感触と、優しげな声にはっとなって、戸高は少しだけ顔を上げた。


「私は何も、後悔してない。」

「でも……」

「私ね――」


 普段戸高の言葉を遮ることのない楓が、静かで優しげな口調で戸高の逆説を遮る。

 優しげだが、決意に満ちた口調だった。


「野球が好きだって、心の底から、なかなか言えなかった。」


 ピクリとも動かない戸高の背中に、語り続ける。


「好きで始めた野球だったけど、いつの間にか役割をこなすことが目的になってた。」


 戸高は黙って楓の言葉に耳を傾けている。涙はいつの間にか止まっていた。


「そうしないと、居場所ごとなくなっちゃうから――私にとって、ワンポイントだけが許された居場所。これまでだってそうだったんだ。先発しても、リリーフしても、最後まで投げられない。勝利の瞬間は、いつもベンチにいた。ずっと正捕手だった戸高くんには、分からないかもしれないけど……」

「俺は――!」

「でもね」


 戸高の言葉を、楓はさらに遮る。

 様子が違う楓の言葉に、戸高はつい聞き入ってしまう。


「戸高くんなら、私を最後までマウンドに立たせてくれるんじゃないかって思ってた。勝手だよね。交代を決めるのは監督だし、スタミナがないのは私なのに。」


 乾いた、儚げな笑みを浮かべながら、楓はさらに言葉を紡ぐ。


「だからあのとき、監督に食い下がってくれたのが嬉しかった。もう投げられなくなるんじゃないかって思ったりもしたよ? でもね……戸高くんのリードが導いてくれるから、大丈夫だって思えた。戸高くんは、今日の私を見て投げさせたいって思っただけなのに、不思議と。」

「違うんだ、立花、俺は……」

「だからね、私、もうずっと最後まで投げれなくても、ワンポイントのままでも――」


 そこまで言ったときだった。


「違うんだ! ずっと――ずっと思ってたんだ!」


 しんと静まりかえった待合室に、野太い声が響いた。

 戸高は少しだけ環境に配慮して声を落とし、そのままの口調で話し始めた。


「『ずっと』って、どういうこと?」


 不思議そうな顔で戸高の横顔を見つめる楓の問いに、正面を見たまま戸高は答える。


「あの日、高校3年の夏、俺は初めて『リードしたいピッチャー』に出会ったんだ。キャッチャーとしては、いいピッチャーと組む方が抑えられる。成績も残せる。だけど、誰と組んでもいいピッチャーなら、俺の存在意義って何なんだ? ずっとそう思ってた。」


 そして、楓の方に向き直った。


「そんなとき、立花楓に出会った。」


 今度は戸高が楓の目をじっと見つめて言葉を続ける。


「俺は立花のシンカーに手も足も出なかった。だけど、結局最後の打席に、一番勝負したい打席に立花はいなかった。俺は、立花のシンカーを打つこともそうだけど……それ以上に、『どうしてこのピッチャーが最後までマウンドにいられないんだ』って憤った。」


そして、さらに力強い言葉で言う。


「勝利の瞬間までマウンドにいたくないピッチャーなんていない。いるわけがない。キャッチャーは、ピッチャーを最後までマウンドに立たせるのが仕事だ。こんないいボールを持ってるのに、女だから仕方ない? ふざけんなって思ったよ。だから、立花とまた会えたとき、俺が必ずあのシンカーで胴上げ投手にするって、心に誓ったんだ。だから――」


少し言葉を選んでから、戸高は天を仰いで力なさげに言った。


「俺のせいで、立花がワンポイントに戻る羽目になるんじゃ、相棒失格だ。」


「えっ……?」


 楓には、言葉の意味が分からないのに、嫌な予感がした。


 そしてその予感は、すぐに当たった。


「俺には、立花の球を受ける資格が、もうない。」

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