第78話 逆転のドルフィンズ

 9回表、2点ビハインド。

 まさに絶体絶命の場面だった。


 昨シーズンまでなら、この試合展開ですぐに諦めモードになっていただろう。

 だが、今年は違う。


 グラウンド上の選手だけでなく、ベンチ、そしてスタンドのファンの誰一人、この試合をまだ諦めていなかった。


 今シーズンの戦力も、大幅に補強されたわけではない。

 チームの雰囲気と采配が変わっても、盤石な勝利はめったに訪れない。

 しかし、諦めない気持ちと勝利への執念で、ドルフィンズは度重なる逆転劇を演じてきた。


 それは、レギュラーだけではない。

 チームスタッフを含めた全員でつかみとってきた勝利だ。


 いつしか呼ばれるようになった「逆転のドルフィンズ」の二つ名は、まさにそれを体現していた。


 タイタンズの抑え投手に対し、先頭打者の9番・宮川がファウルで粘り、フルカウントで迎えた11球目を見逃して出塁すると、続く金村は初球を叩いて目の覚めるようなセンター前ヒットで無死1・2塁のチャンスを作る。


 続く2番・内村が送りバントを決めて、状況は1死2・3塁。

 ワンヒットで同点という場面で、打席には3番、先発マスクの戸高。


 先ほどの回で代打・谷口を起用したため、ベンチに起用可能な捕手はもう残っていない。ホワイトラン監督はこの試合で、戸高と心中すると決めていたのだ。


◆◆◆


「なにそれ。変な練習。」


 CS最終戦の開始直前、試合前練習中。

 打撃投手の投げるボールを見逃し続ける戸高に、声をかけたのは楓だった。


「いいだろ、別に。」


 いつもよりもぶっきらぼうに返事をして、楓のほうを見ない戸高。


「あー、緊張してるんだー。スタメン3番の戸高選手。」


 楓の言葉に戸高の眉は大きく動いたが、視線は打撃投手を見つめたままだ。


 戸高が前に出した右足が、一瞬ぴくりと浮きかける。


「ああ! もう! 立花のせいだぞ!」


 一回り以上年上の打撃投手に手のひらを向けて丁寧に「タイム」のアクションを取りながら、いらだった口調で楓に言葉を投げかける。


「え? なになに? そんなに緊張してた?」


 らしくない戸高の動揺ぶりに、楓も少し動揺した様子で答える。


「緊張するだろこんなもん! 日本シリーズがかかった試合でスタメンマスクにクリンナップだぞ! 谷口さんの野球人生かかってんだよ……。」


 自分の一番倒すべき好敵手の名前を口に出すと、唇をかみしめてうつむく。


「ごめんって……で、何してたの?」


 楓もさすがにバツが悪かったのか、すかさず話題を切り替える。


「ああ、これな――東さんにタイタンズのクローザーの配球と球種、真似てもらってんだ。ついでに、フォームも。」


 戸高がマウンドのほうに目をやると、2人が会話する合間に投球練習をしていた打撃投手の東がにんまりと笑って右手を挙げた。

 東は39歳になるドルフィンズ生え抜きの打撃投手。プロ野球選手としては花が咲かなかったが、器用な投球術は毎回相手チームの投手のフォームや球種をまねる打撃投手という仕事で開花した。

 戸高は大事な試合のたびに、東に頼み込んでこの練習に付き合ってもらっていた。


「昨日頼み込んで、真似してもらってるんだ。どこかで――」


 そういうと、楓のほうを真っ直ぐと見る。


「立花につなぐために、打席に立つときが来る気がして。」


◆◆◆


(立花、本当に来ちまったよ・・・)


 戸高はネクストバッターズサークルでもう一度バットを強く握りこんだ。

 やはり手の震えは収まらない。


「バッター! ラップ!」


 審判にせかされて我に返る。

 自分の名前が場内にコールされたのも気づかなかったようだ。


「ああ、はい、すんません。」


 まるで学生野球の選手のように返事をすると、戸高はいつもよりもゆったりした足取りで打席に入った。


 大きく深呼吸して、マウンドを見つめる。


 東よりもずいぶん大柄な投手が、見覚えのあるセットポジションを取る。


(東さん、あなたは本当にすごいピッチャーですよ。)


 まだ止まらない指先の震えとは対照的に、一瞬リラックスした笑みを浮かべる。


「ストライク!」


 戸高はまったく打つ素振りなく見逃した初球の球筋を確認すると、ベンチを見た。

 視線の向こうには、戸高を真っ直ぐとみて、一度ゆっくりとうなずく東の姿。


(なんでもっと大投手にならなかったのかな……さすがに不思議ですよ。)


「ボール!」


 戸高は2球目も微動だにせずに見逃す。


 2回ゆらゆらと体の前でバットを揺らして、もう一度構えなおす。


(だって――)


 いつの間にか震えの止まった両手を、しっかりと握りこむ。


 投手がすっかり見慣れたセットポジションから足を上げる。


(配球も球種も――)


 投手が足を踏み出すのと同時に、大きく上げた戸高の足も強く地面を踏み下ろそうとしていた。


(全部東さんの予告通りなんだから!)


 放たれたボールは高い風切り音を立ててミットへ向かう。

 スピードガンは151km/hを示していた。


 これまでリーグ1位を独走してきたタイタンズの不動の抑え投手が投げるボールは、決して甘いものではない。

 クローザーとは、調子によって実力がぶれてはならない。


 いつも、「同じ実力」を求められる存在だ。


 9回表、ホームゲーム、2点リード、優勝決定戦。


 これだけ多くの条件が整った場面は、「同じ実力」を定義するには十分だった。


 戸高と東はそこに目を付けたのだ。


 大事な試合では、ミスは許されない。「盤石な投球」が求められる。

 これほどまでに限られた条件下では、必然的に投球内容は似通ってくるはずだと。


 アウトローのストレートに対して、狙いすましたかのように戸高の足は外へ大きく踏み出していた。


 バットの真芯でとらえた打球は、一筋の線を描くように三塁手の頭上を越え、レフト線の内側に転々とする。


 戸高は3塁コーチャーが千切れんばかりに右腕をぐるぐると回すのを見届けて、大きく手をたたきながら1塁キャンバスを蹴った。


 2塁に到達して、ベンチに向かってガッツポーズをする戸高。

 ベンチもありったけの声で戸高に応える。


 そして、戸高は今度は記者席にある、場内のメインカメラに向かって右の手拳を突き出した。


 それは、決してファンサービスなどではなかった。


◆◆◆


「立花! 何ぼーっとしてる! ピッチ上げるぞ!」


 谷口の怒声で、楓は我に返った。


 戸高の拳が意味するものは、十分楓に伝わっていた。


「いちいち見とれんな! 絶対に逆転する。そのときお前の出番が来る。それだけを信じて肩を作れ。」


 代打からベンチに戻った谷口は、この展開を予期したようなことを言い、楓に肩を作らせ始めていたのだ。


「はい――」


 はしゃぐでもなく、ただし、力強く楓は答える。

 少しうつむき加減に見えたその眼には、闘志の炎が燃え滾っていた。


「よし、来い!」


 その様子に一瞬たじろいだ素振りを見せた谷口は、先ほどよりも大きな声で投球練習のボールを要求する。


 まだ同点に追いついただけだが、チームの誰もが立花楓に訪れる「勝負の時」を予期していた。


◆試合結果(東京−湘南・CSファイナル6回戦)

湘南 000 000 002=2

東京 000 000 02 =2

湘南の継投:山内(2回)、斎藤(5回)、神田(1回)

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