第76話 ホワイトラン・マジック
最終戦を控えたロッカールームは、不自然なほどリラックスしていた。
これまでと同じような、選手たちの談笑が響き、顔には笑顔がこぼれる。
「お疲れ様でっす!」
いつものように頃合いを見て、勢いよく部屋に入ってきた楓たちに手を上げて応える新川の様子もいつも通りだった。
しかし、選手たちの様子とは対照的に、世間には様々な動揺が駆け巡っていた。
《ドルフィンズ、最後の奇策!》
《ホワイトラン・マジック、最終章へ》
スポーツ紙やネット記事の見出しが躍る。
インターネットの掲示板でも、その采配には大きな反応があり、物議を醸していた。
《【悲報】ホワイトラン将、ご乱心》
《ドルフィンズランド、新アトラクション開設のお知らせ》
それらの反応は、すべて昨日の試合終盤に、電光掲示板に表示された文字に対するものだった。
《第6戦予告先発 ドルフィンズ 山内 修平》
なんと、ホワイトラン監督はクローザーの山内を予告先発に持ってきていたのだ。
(さすがの山内さんも、緊張するみたいだね……。)
楓が隣にいる希に、小声で話しかける。
(こういうときはそっとしておくのが一番だよ。山内さんだってプロなんだから。)
希も小声で答えると、楓を山内とは反対の壁側に置かれた椅子へ促した。
「やっぱ、勝手が分からんもんか?」
正捕手の谷口が、ロッカールームの隅に座って集中力を高める山内を気遣い、声をかける。
「そりゃあね。円陣組む前からマウンドに上がること考えるなんて、普段ないですから。」
山内にとっては、高校生以来の先発マウンドだった。
山内は大学1年生の時にクローザーとしての才を見出され、以来リリーフ専門で投げてきた。そのため、大学でも1度も先発したことはなかった。
「すまんね。俺が頼りないばっかりに。」
情けなさそうに声をかけたのは、エースの斎藤だ。
本来なら、ローテーション的にも、状況的にも、エースの斎藤が先発する場面だった。
だが、斎藤は大事な試合での立ち上がりを最も苦手としていた。
そういえば、斎藤は開幕戦でも先頭打者ホームランを打たれている。
「そんなことはない。君は3回からだけ、頼りになるエースだ。」
どこから話を聞いていたのか、扉を開けて入るなり言葉を発したのは、ホワイトラン監督だった。
「『だけ』って……。」
切なそうにつぶやく斎藤の様子に、ロッカールームにも笑い声が響く。
この試合、どうしても斎藤には投げてもらいたい。
だが、立ち上がりで打たれて試合を壊すわけにもいかない。
そう考えたホワイトラン監督が発案したのが、この山内をオープナーとして使う継投だった。
「君を先発させることに多大な不安があるのも事実だが、この試合を預けられるのは君しかいないのも、また事実だ。」
ホワイトラン監督は斎藤の目をまっすぐ見てそう言うと、今度は山内の方を見る。
「そして、山内なら立ち上がりを完璧に抑えられると信じている。」
その様子を見た山内は、これ見よがしに大きく天を仰いだ。
「せっかく俺がリラックスさせてたのに……監督、この罪は重いですよ。」
谷口があきれ顔でつぶやくと、再びロッカールームに笑い声が響く。
その様子を見て、楓と希も顔を見合わせて笑った。
「安心しなさい。8回から抑えるのと、1回から抑えるのと、どちらも2回に変わりない。野球は、結局9回を抑えれば勝てるスポーツなんだから。」
「かんとくー! 延長戦になったら?」
「楓、今それを言うのはやめなさい。さすがに私の采配の限界を超える。」
ホワイトラン監督もおどけてみせた様子に、再び一同に笑い声が響き、リラックスしたまま試合開始の時間を迎えようとしていた。
約1名を除いて。
◆◇◆◇◆
ドルフィンズの先発バッテリーが発表されたとき、スタジアムには大きな動揺が響いた。
《ドルフィンズ 先発バッテリー 山内-戸高》
まるで楓が登板した後の9回裏のようなバッテリーの再現に、ファンたちは驚きを隠せなかったのだ。
そしてその動揺は、戸高本人に一番大きく生じていた。
(あんなに追いかけた正捕手の座、夢にまで見た大舞台での先発捕手……なのに……。)
戸高は選手たちがぞろぞろとグラウンドへ出る中、震える右手を見つめたまま立ち上がれずにいた。
(この試合に俺のリードで負けたら、みんなの日本シリーズが消える。谷口さんだったらこの試合にどう向き合うんだ?)
次から次に考えが出ては消える。
(先頭打者、最初は何から入る? 山内さんなら初球はやっぱりスライダー? でも開幕戦でスライダーは打たれてる……じゃあ真っ直ぐ? いやさすがに待たれている可能性がある……なら……!!!)
戸高は両頬に走った小さな衝撃と、突然変わった視界に驚いて目をしばたいた。
「ピンチになったら私が投げるから。それまで自分のリードを貫いて。」
目の前にあったのは楓の顔だ。
両手で戸高の顔を張ったまま、息がかかりそうなほどの距離で言う。
いつの日か、自分が追い詰められたときにこんなことを言われたような気がする。
女子選手と野球をすることなどになれていなかったはずの戸高は、半年前なら真っ赤に赤面して顔を背けていただろう。
「――わかった。頼む。」
真っ直ぐ目を見たまま、そう言った。
その理由は、単なる慣れではない。
戸高には、信じていた”ある思い”が確信に変わっていたからだった。
グラウンドに出ると、皓々と光る自分の名前が戸高を迎えていた。
◆ドルフィンズスターティングメンバー
1番 センター 金村虎之介
2番 セカンド 内田俊介
3番 キャッチャー戸高一平
4番 サード 田村翔一
5番 ファースト フェルナンデス
6番 ショート 新川佐
7番 ライト ボルトン
8番 ピッチャー 山内修平
9番 レフト 宮川将
ホワイトラン監督は、戸高を3番打者で起用していた。
その事実は、打撃に不安のある谷口に捕手を変えないこと、つまりフルイニングでキャッチャー戸高一平と心中することを示していた。
「戸高、あえて言うぞ。」
グラウンドに出た戸高を呼び止めたのは谷口だ。
「今日勝てなかったら、俺の野球人生で日本シリーズはもうないかもしれない――だから、頼むぞ。」
これ以上プレッシャーをかける言葉があるだろうか。
「はい。勝ちます。」
しかし戸高は、感情を抑えたのが分かるほど低く、だが力強い声でそう答えた。
◆◇◆◇◆
タイタンズも、最終戦は総力戦を予期していた。
迷うことなく、予告先発はエースを登板させ、ベンチ入り控え投手の名前にもエース級がずらりと並んでいた。
1回表の攻撃を迎えたドルフィンズもさすがに簡単には打たせてもらえず、あっさりと3者凡退で試合が始まった。
続く1回裏。
まだほとんど土の荒れていない先発マウンドに上がった山内は、自分が足を踏み出す位置をじっと見つめると、始球式のタレントのようななれない足つきで何度か土をなでた。
それも表面をなぞるかのような力ないならし方で。
そしてもう一度離れた場所からマウンドを見つめると、再びマウンドに登り、今度は思い切りスパイクを地面に叩きつけるように、自分の足の位置の土を蹴り上げ始めた。
犬が骨を隠す場所を見つけたかような一心不乱な様子で、何度も、何度も土を掘り進めていく。
思わずその様子を見た戸高が
「おし! こんなもんか!」
満足そうにマウンドを見つめる山内の視線の先には、まるで9回まで使い古した可能ような凸凹のマウンド。
「クローザーだろうが、オープナーだろうが、マウンドはマウンドだもんな。」
投球練習を終えると、そう言ってホームベースの方に向き直った山内の視線の先には、左打席に構えるタイタンズの1番打者の姿と、戸高のミット。
9回に見る光景と、それはまったく同じものだった。
唯一違うのは、スコアボードにまだ数字が1つも入っていないこと。
見慣れない電光掲示板の方を振り返るとまた集中力が途切れそうな気がして、山内は戸高のサインだけをのぞき込んだ。
(アウトコースに、ストライクになるスライダー)
戸高のサインも、まるで9回に出されるもののようだった。
まずは様子見の時に要求される、セオリー通りのサイン。
山内はランナーがいる状態に最適化された小さなフォームから、いつものようにスライダーを投じる。
ボールゾーンから鋭く曲がったスライダーは、打者の外角低めを襲う。
これに対して、打者はドンピシャリのタイミングで、腕を伸ばして合わせにいった。
初球のスライダーを完全に読んでいたのだ。
「ストライク!」
しかし、ミットに収まったボールと、感触のないバットを交互に見て、打者は目を白黒させている。
「なるほどなあ……さすがに軽いわ。」
マウンド上の山内は、何やらうれしそうに跳ねるようにしてプレートの位置まで戻る。
「同じ初球でも、先発のマウンドってのはこうも違うもんかね。」
マウンド上の独り言が聞こえていたのか、山内にボールを返した戸高は、にやりと笑って指を一本立てて見せた。
それに対して山内もグラブを2回閉じて応えてみせる。
クローザーというのは、文字通り試合を締める存在だ。
1点差で登板することも多く、絶対に間違いは許されない。
それに対して、先発はコンスタントに5回で3失点なら上出来と言われる世界だ。
普段背負っている「絶対に間違いが許されない」という足かせから解き放たれた山内は、久方ぶりの全力投球で初球を投じてみたのだ。
この後も、山内は躍動するようになフォームで、快刀乱麻のピッチングを見せる。
振り返ってみれば、3回表に巡ってきた打順で代打をコールされるまで、2回をパーフェクトピッチングで終えていた。
そして、満を持して本当の先発投手、斎藤にスイッチするのだった。
◆試合結果(東京−湘南・CSファイナル6回戦)
湘南 00=0
東京 00=0
湘南の継投:山内(2回)、斎藤(0回)-戸高
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