第75話 私の役割

「大久保!」


「大久保さん!」


 ベンチからメディカル・スタッフが飛び出してきたのを合図に、内野陣も一斉に大久保のもとへ駆け寄る。


「やかましいわ。打球が当たったぐらいで何を騒いで……」


 と、大久保は立ち上がろうとするが、打球が当たった左ひざから崩れ落ちるようにバランスを崩してしまう。

 そばにいた内田が、小さな体で慌てて大久保に肩を貸して支える。


「くっそ……なんでや。」


 メディカル・スタッフにアイシングスプレーをかけられ、患部を冷やすが、再び立ち上がろうとしてもやはり左ひざには力が入らない。


 結局、大久保は一度ベンチ裏へ下がって治療を行うことになり、一度ベンチから姿を消した。


◆◇◆◇◆


――バシン。

――バシン。


 ボールがキャッチャーミットを強く叩く音が立て続けに鳴り響く。


 大久保の負傷を受けて、降板を視野に入れてブルペンは大忙しだった。


 5回を終えた時点で、1対1の同点。


 次の1点をやれないこの場面に、セットアッパー2枚看板のうちのひとり、神田が急ピッチで肩を作っている。

 その隣には、さらに神田が攻略された場合に備えて、中継ぎで今シーズン大車輪の活躍を見せた伊藤も投球練習を行っている。


「神田! 次の裏から行くぞ!」


「はい!」


 いつも通りの威勢のいいやり取りが響く。

 2枚目のセットアッパーとして今シーズンを戦ってきた神田にとって、この程度のスクランブル登板は慣れたものだ。


――パシン。


 そしてそれらのミット音を追うように、少し弱くミットを叩く音がブルペンに響いていた。


「たーちーばーな。」


 あきれたような表情で河本投手コーチが楓に話しかける。


――パシン。


 しかし、それでも我関せずの表情で投球練習を続ける楓。


「ほら、戸高もいちいち付き合うんじゃねえよ。今日を調整日にする意味、お前にはわかってるだろ。」


 今度は戸高を諭しはじめる。


「……すいません。」


 戸高は河本コーチのほうを向いてバツ悪そうに一度会釈すると、再びミットを構えた。


「おまえなあ!」


 さすがにこの様子に河本コーチも声を荒げる。


 その時だった。


「あれ……? いや、河本さん、ちょっと。」


 戸高が楓のほうを向いたまま、河本コーチを呼びかける。


「なんだよ。俺は投手コーチだぞ? そんなの見ればわかるよ。いまの大きなシンカーが曲がりすぎて……」


――パシン。


 戸高はミットの捕球面を上に向けて楓のボールをキャッチする。


「立花! いまのもう1球いけるか?」


 返球しながら戸高が呼びかける。

 楓は一切表情を変えずにボールを受け取って、再び投球モーションに入る。


 このテンポで投げ続けていないと、河本コーチに中止させられると思っていたからだ。


 理由はともあれ、小気味よいテンポでシンカーを何球も投じていく。


 そして、まったく同じところに曲がりすぎたカエデボールが3球投じられたときだった。


「立花、お前……。」


 河本コーチが驚嘆の表情で楓に声をかけた。


「そのシンカー、狙って投げてんのか?」


「このボールじゃあ、ダメですか。」


 正面から答えない楓の言葉が、すべてを物語っていた。


「疲れたときに投げると引っ掛かりすぎるシンカー、ずっと気になってたんです。曲がりすぎちゃうけど、これを逆手にとれないかって。」


「それって、『第3のシンカー』ってわけか……!」


 しかめっ面だった河本コーチの顔が一瞬明るくなる。


「俺も驚きましたが、立花は不調時に投げる大きすぎるシンカーも、コントロールできるようになったみたいです。その証拠に……」


 横から状況を冷静に解説した戸高が、向きなおってミットを構える。


 楓はそれを見て小さく頷くと、セットポジションからシンカーを投じる。


 これまでの大きなシンカー、カエデボールと同じ軌道を描いて打者へ向かったボールは、そこからさらにいつもよりボール1.5個分大きく沈んで落ちた。

 しかも、その曲がり始めはカエデボールと同じタイミングだ。


 打者からは、カエデボールなのか、この「第3のシンカー」なのかは分からない。


 楓は疲労時に指が引っ掛かりすぎるときの感覚を利用して、さらに決め球を進化させていたのだ。


「すげえ……すげえよ、立花! お前ってやつは!」


 新たな変化球の誕生の習慣に立ち会った興奮で、河本コーチは思わず子供のようにはしゃいで楓に話しかけた。


 その様子に楓の表情もパッと華やぐ。


「じゃあ、次の回は……!」


「それは、ダメだ。」


「どうしてですか! このボール、イケてるって言ってたじゃないですか!」


「それはそれ、これはこれだ。お前は明日の大事な場面に備えてもらわんといかん。」


「でも、今日負けたら――」


 そこまで言って、楓は自分の言った言葉の意味を認識して口ごもった。


 今日負けたら、すべてが終わる。

 ここまで見てきた夢も、ついえてしまう。


「まったく、仲間を信じられへんっちゅうのか?」


 楓の次の言葉を代弁したのは、両脇を支えられてブルペンに現れた大久保だった。


「大久保さん……。」


 痛々しくアイシングがまかれたひざは、外から見ても腫れあがっていることが見てとれる。


「まったく、楓ちゃんは大したもんやわ。シーズンの終盤にもさらに進化を遂げるなんて、プロの世界でもなかなかできん。でもな――」


 大久保はそういうと、両脇のスタッフに促して下がらせ、楓に一番近いベンチにどっかと腰を下ろした。


「楓ちゃんには、明日の日本シリーズ決定戦で、一番大事な試合で、投げてもらわんといかんのや。明日は今日以上にタフな試合になる。その場面で楓ちゃんが万全の状態で投げられるように、今日は俺たちだけで何とかせんといかんのや。

 それとも……今日無理やり投げて、明日俺らの努力を水の泡にするんか?」


 楓は思わず言葉を飲んだ。

 その様子を見て、穏やかな口調で大久保は言葉を続ける。


「ほれ、見てみい。神田の顔。」


 促されて隣のマウンドを見ると、楓たちの話が聞こえないくらい集中した神田が、最後の追い込みかかっている。


 1球ごとに上がっていく急速。ブルペン捕手のかける「ナイスボール!」に呼応して、それよりも大きな声を張る。


「あれが、今シーズン楓ちゃんと一緒に戦ってきたリリーフの顔や。こういうときに自分の力で何とかしたいのは分かる。でもな、野球は25人全員でやるもんや。信じられる仲間がいるっていうのも、日本一の大事な条件なんやで?」


 実際に日本一を経験したことのある大久保だからこそいえる言葉だった。


 楓には、その言葉で十分だった。


 この場面で、楓をピンチに起用することが定石なことくらい、誰しもわかっていた。

 必死の形相で肩を作るリリーフ陣は、明日楓を万全の状態で登板させるためのものだった。


 どんなピンチで左打者を迎えても、今日だけは自分たちだけの力で必ず抑える。

 楓のワンポイントを頼りにしているからこその決意だった。


「神田さん……お願いします!」


 楓たちのやり取りが終わるころ、6回表の攻撃は早くも3人で終ろうとしていた。


 神田は楓に向けてグラブを2回だけ閉じて挨拶すると、颯爽とグラウンドにつながる廊下へ走っていった。


◆◇◆◇◆


 そこからの守りは、「壮絶」そのものだった。


 ドルフィンズは神田、伊藤、バワードなど勝ちパターン投手を次から次ににつぎ込む怒涛の継投で、全力で牙をむくタイタンズ打線を交わしていく。


 毎回のようにランナーを背負いながら、そしてスコアリング・ポジションにランナーが進んだとあれば回の途中でも惜しげなくリリーフを投入していった。

 そして、9回表には同点のままクローザーの山内までつぎ込んで、なんとか9回を1失点に抑え込んだ。


◆試合経過(東京−湘南・CSファイナル5回戦)

湘南 000 010 000=1

東京 100 000 000=1

湘南の継投:大久保(5+2/3回)、神田(2/3回)、伊藤(2/3回)、大嶋(1回)、バワード(1回)、山内(1回)


 しかし、打線もタイタンズ投手陣に抑え込まれてしまい、勝ち越し点を得ることができない。


 気づけば、ドルフィンズはブルペンに先発要員の叶と楓のみを残して、すべての投手を使ってしまっていた。


 両チームはがっぷり四つに組んだまま、このまま延長戦に入った。


 規定上は最長12回まで守ることになるため、叶と楓で3回を乗り切らねばならない。


 だが、楓には声がかからないままだった。


 ひとり、またひとりとブルペンからグラウンドへ向かう投手たちを、楓は見送ってきた。

 いつもの様子とは違い、完全に肩が仕上がった状態でマウンドへ登り、全力投球で投げられるところまで投げる。


 みな必死の様子で戦っているのが、ブルペンにいる楓にも伝わる。


(みんながつないでくれていたけど、もう先発の叶さんと私しか残ってない。さすがに覚悟したほうがよさそうだよね。)


 いつの間にか投球練習は許されていた楓が、唇を真一文字に結んで、さらにボールのギアを上げようとしたときだった。


 ビジターチーム用ブルペンの真上にあるレフトスタンドから、地鳴りのような歓声が聞こえる。


 はっとして楓がモニターを見ると、ベースを悠々と回る田村の姿がそこにあった。


 同点に引き続き、勝ち越しのソロホームランを放ったのだ。


 歓喜の渦に飲まれるように、ベンチで雄たけびを上げながらハイタッチを交わす田村。


 ブルペンの面々もうれしそうな表情を浮かべるものの、ベンチとは温度差があった。


 彼らには、「残りの2人で10回裏を抑えきる」というミッションが課されていたからだ。


 楓はスコアボードをもう一度確かめるように見て、1回表に刻まれた「1」という数字を確認すると、その意味を胸に刻むように胸に手を当てて大きく深呼吸する。


 しかし、


《ドルフィンズのピッチャー、山内に代わりまして、叶。ピッチャーは、叶。背番号63。》


河本コーチが声をかけるよりも早く、楓には出番がないことを場内アナウンスが告げた。


(どうして……!)


 反射的に抗議のまなざしを河本コーチに向ける。


「立花、もう俺たちは決めたんだ。何が何でも、今日は『お前の肩を守って勝つ』ってな。」


 バント処理の際にユニフォームを泥だらけにして帰ってきた山内を迎えながら、河本コーチは振り返って言った。


 みんながボロボロになって戦っているのに、そこにひとりだけ入れない。ひとりだけ、みんなの力になることができない。


 それが楓は悔しくてしかたなかった。


 プロの投手には、短期決戦で毎試合投げても結果を出す選手がいる。


 でも自分のフィジカルは弱い。

 弱いから、肝心な時に力になれない。


 女子選手としてのポテンシャルの限界、という言葉が脳裏をよぎった。


「立花。」


 ブルペンからグラウンドへ向かおうとする叶が、背を向けたまま呼びかける。


「明日、頼んだぞ。」


 それだけ言い残して、叶はブルペンを後にした。


 楓が振り返ると、そこには戸高の姿。


 思わぬ新球種の誕生に、今日は戸高も温存の対象となっていた。


 今日中に第3のシンカーを完成させれば、明日の試合で大きな武器になる。

 万全のコンディションと、万全のシンカーで、明日のタイタンズを迎え撃つ。

 そのために、今は我慢だ。


 戸高が座って、ミットを構える前に強くたたく音が、そう告げているように聞こえた。


◆◇◆◇◆


 試合は、10回裏を叶が2死2・3塁の大ピンチを招きながらも何とか抑え、ドルフィンズは星を五分に戻した。


◆試合経過(東京−湘南・CSファイナル5回戦)

湘南 000 010 000 1=2

東京 100 000 000 0=1

湘南の継投:大久保(5+2/3回)、神田(2/3回)、伊藤(2/3回)、大嶋(1回)、バワード(1回)、山内(1回)、叶(1回)


 泣いても笑っても次の6回戦で、日本シリーズへの出場権の行方が決まる。

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