第72話 男の戦い

 勝った方が日本シリーズ出場に大手をかける大一番という試合。

 ドルフィンズは8回裏、1死1・3塁で打席に3番・キャッチャーの上尾を迎えるというピンチに立たされていた。


 マウンドにはワンポイント登板の楓、キャッチャーは戸高。


 代打攻勢の連続で試合を決めに来たタイタンズに対して、ドルフィンズも切り札で対抗する形になった。


◆試合経過(東京−湘南・CSファイナル4回戦)

湘南 120 020 00=5

東京 110 030 0 =5

叶(5回)、伊藤(1回)、バワード(1回)、神田(2/3回)、立花(0回)−谷口、戸高


「お待たせしました!」


 内野陣が集まるマウンドへ合流した楓は、緊迫した円陣の中心に一歩踏み出すといつもより少し大きめの声を張り上げた。


「ほんと、すまんね。いつもいつも。」


 苦笑気味にショートの新川がそれに答える。


「いえいえ。これで私、ご飯食べてますから。」


 爽やかな笑顔とは対照的なアイロニカルな言葉は、年上の男たちに漂う緊張感をほぐすためだった。


「ささ、今日もいきますよ! はい、しまっていこー!」


 楓はそう言うと、戸高のプロテクターの胸辺りをどんと平手で押して、選手たちが守備につくのを促した。

 彼らの背中を見て安心したような顔を一度浮かべると、丁寧にマウンドの土をならしていく。


 1回、2回、3回……ゆっくりとプレートの上の土をスパイクの底で払い、今度は足を踏み出す場所をならしていく。


 女子選手だけに他の投手よりも明らかに身長の低い楓が踏み出す場所は、8回裏になっても平らなままだった。

 その場所をいつもより念入りにならす。


 そして夜空の見えない頭上を見て、大きく深呼吸。

 

 再びホームベースへ目を向けると、戸高が座って構えている。


 1球、2球と指先の感覚を確かめるように投球練習をする楓。

 投じられたシンカーは、左打者の外角ベルト線辺りの高さから鋭く曲がり、内角低めのボールゾーンへ収まっていく。


 その変化量とキレを目にしたバックネット裏の観客たちは、一斉に驚きの声を上げた。


 お飾りでしかなかったはずの女子選手・立花楓が投じるシンカーは、プロ野球選手の目からでなくてもわかる「決め球」だった。


 投球練習の最後にそれを5球連続で投じると、楓は一度ホームに背を向けてバックスクリーン方向に翻った。


 じっと左手を開いて見つめる。


(1試合でも多くの「山場」に投げて、そこをしのぐのが私の仕事。でも、毎日体の感覚も調子も違うのがプロ野球選手。だから、毎日その日の「最高」に調整しなくちゃいけない。)


 ぐっと手を握って、目を閉じと、大きなため息。


「かーっ、なかなかブラックなお仕事ですなあ。でも……」


 自嘲気味に微笑んで言うと、再びバッターの方へ向き直る。


「ここを抑えないと、私たちに明日はない。」


 珍しくマウンドで独り言を言って、戸高のサインを覗き込んだ。


◆◇◆◇◆


 打席では、上尾が2度、3度と軽く素振りしながらいつものルーティンを行う。

 その顔色を覗き込むようにうかがってから、戸高は球種とコースを決める。


「まったく、女の力まで借りてここまで食らいつくとは、ずいぶん必死なんだな。」


 突然発された声の主は上尾だった。


 戸高が驚いて見上げると、上尾はマウンドの方を見ながら言葉を続けた。


「この戦力差でここまでやるとは、本当にたいしたもんだよ。お前らは。」


「まるでもう日本一を決めたみたいな口ぶりですね。」


 反射的に答えてしまった。


「そりゃあ、女まで戦力化してくるチームに、球界の盟主が負けるわけにはいかないからな。」


 戸高は、自分の言葉に上尾の肩口が一瞬ピクリと動くのがわかる程度には冷静だったが、その後の言葉で自分の頭に血が上るのをはっきりと自覚した。


 楓は、自分自身に1年目から出場機会を与えてくれた存在でもある。


 もちろん、そのまま自分のための練習を積み重ねていても、すぐに出場機会は訪れたかもしれない。


 でも——。


 戸高の脳裏には、これまでの光景がよみがえる。


 自分より先に楓が一軍デビューした日に、ブルペンから送り出した背中。

 決め球のシンカーが見切られた日、自分にだけ見えた勝機。

 2週間でスクリューを開発してみせると言ったときの監督の表情。

 再び返り咲いた楓がマウンドで躍動する姿。


(でも、俺の夢は、日本一のキャッチャーになることだけじゃない。あの日のシンカーの軌道を——あのボールにみせられた夢を叶えるっていう、もうひとつの夢があるんだ。)


 ずっと思い続けていた言葉をもう一度心の中で念じ直して、戸高ははっきりとした動きでサインを出した。


(内角低めに、ボールになる大きなシンカー)


◆◇◆◇◆


「うへぇ……今日はやけに強気だねえ。」


 マウンドで初球のサインを受け取った楓は、いつもより多い独り言をつぶやいて小さく頷いた。


 1塁、3塁の順にランナーをちらりと見て、リードが小さいことを確かめると、体を大きく沈ませて投球モーションに入る。


(おっ——と)


 つい力が入りすぎてしまった。


 最後に残った中指が、縫い目に深くかかりすぎていたように思えた。


 ボールは外角寄りのコースから、いつもより早めに曲がると大きな弧を描いてワンバウンドした。

 上尾はこれを当然見逃す。


 戸高が膝を立てながら両足を閉じて体に当て、なんとかボールを止める。

 それを見て代走に代わっていた1塁ランナーはすかさず2塁へ。


 戸高は3塁ランナーを目で牽制すると、2塁へ送球せずに楓にボールを返した。


(あっちゃー、いきなりやっちゃったよ。)


 楓は片目を閉じて左手を垂直に前に出し、「ごめん」のゼスチャーを戸高にする。


 戸高は楓の方を見ずに右掌をこちらに向けて返事をすると、しきりに打席に立つ上尾の様子を気にしている。

 マスクの奥の表情はなんとなくしか読み取れなかったが、上尾を睨みつけているようにも見えた。


(こっわ……今日はいつになく気合い入ってるね。その気持ちに応えられるようなボールを、私も投げなきゃ。)


 楓は次こそは投げ損じるまいと、グラブを外して受け取ったボールをゴシゴシと両手でこする。


 そして再びプレートの上に、何かを確かめるように慎重に左足を置くと、2球目のサインを覗き込んだ。


(アウトコースに、ストライクになるカット)


 次は4番の太田だ。

 歩かせるわけにはいかない。


 次のボールでストライクを取りたいのは、楓も同じだった。


(ってことは……ここはギリギリを狙って入れにいくしかないか。)


 楓はいつもより慎重に、ゆっくりと脚を上げて、ここしかないというアウトローギリギリを狙ってボールを投じる。


 ボールは狙い通りのコースに走っていく。


 だが、


「げっ——!」


楓が思わず声を上げるのとほぼ同時に、上尾が外角を待っていたかのように体を開いて打ちに来るのが分かった。


 上尾のバットはボールを捉えると、レフトのポール際へ高々と舞い上がる。


 逆方向に滞空時間の長いホームランを打つことができる広角打法も、上尾の生涯本塁打数を伸ばしているゆえんだった。


 打球はまるで落ちてくるそぶりを見せず、大歓声とともにポールの大きく上をまたいで後楽園ドームの3階席に飛び込んだ。


 楓と戸高が祈るような気持ちで審判を見たのは同時だった。


「あっぶなーーーーー!!」


 3塁塁審が大きく手を広げるのが見えて、楓は思わず大声を出した。


「それにしても、やっぱり今日はなんだかおかしい……。」


 自分自信にも気づかないふりをしていたその言葉を、楓はこの日初めてつぶやいた。


 ブルペンで投げていたときから、どうも変化の始まりが速く、変化量が大きい。


 それを踏まえて投げれば狙ったコースには投げられるが、変化が早いぶん見極められやすいのではという不安を抱いていた。


 もちろん、それに戸高も気づいており、ブルペンにいるときからしきりに気にしていたのだ。


 大ファウルで1−1となったカウントから、戸高が出した3球目のサインがそんな調子を踏まえたものであることは、楓にも手に取るように分かった。


(アウトローに、ボールになるストレート)


 ボールカウントをフルに使ってでも、慎重に攻めるしかないってことね。

 うん、私もさすがにそう思うよ。


 外野フライですら勝ち越し点を与えてしまうこの場面。

 結果的に1塁が空いてしまったことを踏まえると、どう考えても定石過ぎるリードだ。


(さすがに簡単には乗ってくれないけど、はやって打ち損じてくれたらありがたいんだけどな。)


 だが、楓の望みとは裏腹に、ここから上尾は1球もバットを振らなかった。


3球目、外角へストレート。ボール。カウント2−1。

4球目、内角へカット。ストライク。カウント2−2。

5球目、外角へスクリュー。ボール。カウント3−2。


 フルカウントで迎えた6球目は、楓の予想通りのサインだった。


(内角へ、ストライクになる大きなシンカー)


 今日のシンカーは変化が大きい。


 なら、いつもより外角へ、高めへ投げれば内角ギリギリに入ってくれるはず。

 ストライクゾーンをいっぱいに使うこのボールなら、一番打たれる可能性は低い。


(それに私にとっての決め球は、やっぱりこれだからね。)


 楓は口を真一文字に結ぶと、いつもより外角高めあたりを狙ってシンカーを投じる。


 やはり中指にかかりすぎたボールは、ホームベースよりも少し手前で失速すると、内角低めギリギリへ向かって落ちていく。


 上尾が渾身の力で振りにくるのが見える。


(やっぱり打ってきた! でも……)


 前のボールで外角にスクリューをみせていた楓には、戸高の意図が分かっていた。


 初動がカーブに似ており、いつもと変化のタイミングと変化量が変わらないスクリューを見せておけば、変化のタイミングがいつもより早いシンカーで、かえってタイミングを狂わせられるはず。


 打ちにきた上尾も、前のスクリューの残像が残っていたのか、変化に合わせて膝を折るタイミングが少し遅かった。


(これで——!)


 バットの下に当たって内野ゴロになると楓が確信した瞬間だった。


 上尾は腰の回転を残して下半身だけを回転させて、無理矢理もう一段階体を沈ませると、いつもより大きな変化のシンカーにアジャストしてきたのだ。


「——!」


 楓が何か言いかけるよりも早く上尾のバットがボールを捉えると、ボールはライト方向に大きく舞い上がった。


 そして今度はライトのポールに直撃すると、力なく外野の人工芝へぽとりと落ちた。


 大歓声を浴びながら、目深にかぶったヘルメットの奥で表情一つ変えずに上尾はダイヤモンドを回る。


 楓は呆然と打球の行方を見て立ち尽くすままだった。


 痛恨の3ランホームランだった。


◆試合経過(東京−湘南・CSファイナル4回戦)

湘南 120 020 00=5

東京 110 030 03=8

叶(5回)、伊藤(1回)、バワード(1回)、神田(2/3回)、立花(0回)−谷口、戸高


 自らの判断を悔いるように、戸高はホームベースにかかった土を何度も蹴って取り除く。


「女を手とり足取りリードとは、ドルフィンズも大変だな。」


 かけられた言葉に再びかっとなって顔を上げると、そこにはホームベースを踏んだあと悠然と立って戸高を見る上尾の姿があった。


 戸高はもう一度強くホームベースを蹴り上げるのが精一杯で、何か上尾に言い返すことはできなかった。


「タイム!」


 主審のかけ声が楓の交代のためであることは、楓にも戸高にもよく分かっていた。


 勝ち越しを許し、終盤で3点のビハインドを背負ったドルフィンズは、そのままこの試合を落とした。


 自らのバットで3勝2敗とタイタンズに王手をかけさせた上尾の打撃は、その日のスポーツニュースで何度も放映された。


◆試合結果(東京−湘南・CSファイナル4回戦)

湘南 120 020 000=5

東京 110 030 080=8

叶(5回)、伊藤(1回)、バワード(1回)、神田(2/3回)、立花(0回)、大嶋(1+1/3回)−谷口、戸高


◆◇◆◇◆


「くそがっ!」


 普段の性格からは想像も付かないほどの乱暴な言葉と態度で、試合終了直後に戸高は自分への怒りをあらわにした。

 蹴り上げられたゴミ箱が倒れる音がベンチに響く。


 周囲もあまりに珍しい戸高の様子に、腫れ物に触るような態度を取っている。


「そんなこと言わないでよ。悪かったって。ごめん!」


 そんな戸高に臆せずに声をかけたのは、楓だった。


「ほら、明日もあるんだし、まだ決まったわけじゃないんだから。ね。」


 チームのロゴが入ったボトルを差し出す。


「すまん……。」


 低く小さな声で詫びた戸高は、ボトルの水を一気の飲み干すと、楓に向き直った。


「そうじゃないんだ。謝るのは俺の方だ。すまん、立花。」


「なんでよ。私のボール、今日おかしかったのちゃんと気づいてくれてたじゃん。」


「違う。そうじゃない。そうじゃないんだ……」


 そこまでいうと、戸高は唇をかみしめて口ごもってしまった。


「違うって何が? 言ってくれなきゃわかんないよ。」


 楓もいつもと様子が違う戸高を気遣いながら答える。


「一番打たれて悔しいのは立花なのに……指のかかりがおかしいことに気づいていたのも立花なのに……俺は、リードしてやれなかった。抑えさせてやれなかった。」


 だんだんと自分を責めるように語気強く言う戸高の様子を見かねたのか、河本コーチが戸高の頭にロングタオルを掛けた。


「戸高、いつまで過ぎたこと言ってんだ。立花の疲労を分かっていながらゴーを出した俺にも責任がある。これはチーム全体の失敗だ。」


「でも、俺は立花のシンカーを、こんなものじゃないって証明して——」


「でももヘチマもあるかよ。いいか、俺たちがいま考えるべきは、残り2戦をどうやって両方取るかだ。お前には明日も打ってもらわにゃいかんし、守ってもらわなにゃいかん。いいから、今日はさっさと帰って水かぶって寝ろ。」


 珍しく取り乱す戸高を優しく河本コーチは諭すと、その背中を押してダグアウトに誘導していった。


「あと、立花——」


 戸高がベンチの奥へ下がるのを確認してから、河本コーチは振り返って言った。


「ごめんな、さすがに酷使が過ぎたわ。明日、なんとか調整日にするから、最終戦、頼むぞ。」


「えっ、でも……」


「いーや、もう決めたことだ。監督には俺から言っておく。それとも何か? お前が投げないと、俺たちは絶対に負けちまうのか?」


「そういうわけじゃないですけど……。」


「わかったら、お前も早く休め。最終戦は、絶対にお前に頼らなくちゃいけない場面が出てくる。そのときは、俺たちはお前を信じる。だから、お前も俺たちを信じてくれ。」


 心配そうな表情を浮かべる楓をなだめると、河本コーチも戸高の後を追うように小走りにベンチ奥へ消えていった。

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