第71話 居場所
なんとか5回を同点のまましのいだ叶だったが、5回5失点、決して安定感のある結果と言えるものではなかった。
ホワイトラン監督は次の回から伊藤をマウンドに上げると、矢継ぎ早にリリーフ投手を送り込むなじみの継投策に出た。
◆試合経過(東京−湘南・CSファイナル4回戦)
湘南 120 020 00=5
東京 110 030 0 =5
叶(5回)、伊藤(1回)、バワード(1回)−谷口
6回は伊藤、7回は勝ちパターン投手であるダブル・セットアッパーの1人、バワードを起用。
伊藤がランナーを出しつつ6回を抑えると、バワードも最終的に2死満塁のピンチを招きながらもなんとか無失点に抑えてみせた。
このCSで、ドルフィンズは常に総力戦を強いられてきた。
先発が捕まることも少なくない展開に、同点でも勝ちパターン投手を起用することは、すっかりおなじみの光景になっていた。
「次、神田! いくぞ!」
年季が入った内線電話の音が後楽園ドームのブルペンにけたたましく響くと、それを取った河本コーチは威勢良く叫んだ。
「はいはい。商売繁盛、商売繁盛。」
ここのところ連投が続く神田が、皮肉交じりだが穏やかな口調でつぶやき、ブルペンのマウンドを降りる。
セットアッパーが2枚になってからバワードの調子は上がってきたが、それでも連投が続く2人の体には明らかに疲労の色がにじみ出ていた。
それを心配する周りの視線を悟ったのか、神田はおどけてみせたのだ。
「こんな大舞台で連投できる機会、タイタンズにいたらなかったですからね。やってやりますよ。」
神田は誰にともなく、静かだがそれでいて芯の強い口調で言うと、ゆっくりとベンチ方向へ歩いていった。
《ドルフィンズ、選手の交代をお知らせいたします。ピッチャーのバワーズに代わりまして、神田。ピッチャーは、神田。背番号28。》
相次ぐ勝ちパターン投手の投入に、ドルフィンズファンはチームの本気を悟って歓声を上げる。
勝った方が王手をかけるこの試合、何が何でもものにしたいのはファンも同じだった。
大歓声を背に受けて、神田はマウンドに上がる。
この回は9番からと下位打線が相手だが、ここでタイタンズは勝負をかけに来た。
9回になればドルフィンズはクローザーの山内を投入してくるだろうと考え、8回裏に
層の厚さにものをいわせた代打攻勢に出たのだ。
《9番、ピッチャー、ライズに代わりまして、小山田。バッターは小山田。背番号33。》
回の頭から告げられた代打のコールに、タイタンズファンは大きく湧いた。
それもそのはずだ。
小山田と言えば、かつてオーシャン・リーグの神戸ブリュワーズでクリーンナップを打っていた選手だ。
現役バリバリの中軸打者だった3年前、FA宣言をしてタイタンズに移籍してきた。
だが移籍後3年目の今シーズンからは、太田と守備位置が重なったこともあり、控えに甘んじることも多かった。
「おいおい……別にチャンスでもねーのに小山田が出てくんのかよ……。」
マウンド上で神田は思わず眉をしかめてつぶやいた。
神田自身も、タイタンズ時代に交流戦で小山田と何度か対戦したことがあった。
当時、下位チームとは思えないほど強力なブリュワーズ打線に苦戦を強いられた記憶がある。
その中軸が、控え野手として代打で出てくるのだ。
改めてタイタンズの層の厚さを思い知る。
投手として所属していても、いつ居場所がなくなるか、分かったものではない。
「むしろ出してもらって正解だったかもしんねーな。」
神田は自嘲気味につぶやきながら、少しだけ救いを求めるような気持ちでマスクの奥の谷口の顔を見た。
だが谷口は一切表情を変えずにサインを出す。
(インローに、ストライクにするツーシーム)
威圧感たっぷりに大きな構えで左打席に立つ小山田に対して、対峙した投手は誰しも弱気になりそうになる。
それを奮い立たせるかのような、膝元に投げろというサインだった。
神田は慣れ親しんだ後楽園ドームのマウンドの感触を確かめるように踏みしめると、ワインドアップして大きなフォームからボールを投じた。
元タイタンズのローテ投手であったことを彷彿とさせる、雄大なフォームから放たれたボールは、直球のような軌道から打者の手元でわずかに変化する。
手元で変化したボールに気づいたのか、小山田はピクリと肩を動かしてこれを見送った。
主審の右手が挙がる。
カウントは0−1。
だが、神田の額には早くも大粒の汗がにじんでいた。
空調の効いた秋のドーム球場で、まだ1球しか投げていない投手が汗をかく理由。
それはただひとつだった。
威圧感——。
ファーストストライクを取ってカウント優位にしたにもかかわらず、次に投げるところがなくなるような感覚。
キャッチャーのミットが遠く、バッターの体が大きく見えてしまうような、恐怖にも似た錯覚。
どの球団にも必ずいる中軸打者が、「スラッガー」たるゆえんだ。
しかし、神田の様子を知ってか知らずか、谷口は強気のリードを続ける。
(アウトコースに、ストライクになるカーブ)
いきなり緩い変化球で追い込んでしまおうというリードに、神田は驚いた。
小山田の強みは広角に打ち分けられる打撃の幅の広さだ。
これまで多くの同僚投手が、カウントを取りに行った外角のボールをレフトスタンドへ運ばれてきた。
(たしかに不安はあるけど、でも……これしかないっすよね……。)
神田にも、谷口の冷静かつ強気なリードの意味は分かっていた。
次の1点は、文字通り命取りだ。
無死ランナーなしで、安易に歩かせて1番打者を迎えるのは、余りにリスクが大きい。
9番の代打で小山田を出せる層の厚さ相手には、「打たれる確率が一番低いリード」を淡々と貫くしかない。
(だとしたら、俺は……)
神田は再びワインドアップすると、今度はタイミングを外すかのようにクイック気味のフォームで投球モーションに入る。
小山田が慌ててテイクバックを少し小さく取るのが見えた。
(できることを全部やるだけ!)
クイックから、人を食ったような緩いカーブを投げる。
小山田のバッティングフォームが、いささか早めのタイミングで始動するのが見て取れた。
(タイミングは外した! あとは引っかけてくれれば……。)
祈るようにボールの行く末を見つめる神田の願いが通じたのか、泳ぐようなフォームになった小山田のバットは、ボールの上半分をこするように引っかける。
(よし! 打ち取った!)
ボテボテのサードゴロが田村の前に転がった直後だった。
すでに1塁方向に目をやっていた神田が歓声に慌てて振り返ると、ボールが三遊間を転々としている。
ショートの新川がすかさずカバーに入るが、小山田はダッシュで1塁を駆け抜けていった。
神田は電光掲示板に「H」が点滅するのを見て、打球がイレギュラーバウンドしたことを知った。
「オッケー! しゃーなし!」
ばつ悪そうに帽子を取って謝る仕草をする田村に声をかけた神田は、小山田の必死の形相が頭から離れなかった。
(ブリュワーズの中軸だぞ。それがあんなに必死に……。)
常勝軍団タイタンズに移籍するということは、最も優勝、日本一に近い場所にいる代わりに、最も選手生命の消費が速いことを意味する。
周りも同じように栄光を経て移籍してきた選手たち。
これまでの実績などなんの飾りにもならないのだ。
出塁した小山田は当然のような顔をして、代走に出てきた若手選手とハイタッチをしてベンチに下がっていった。
打ち取った当たりだったが、結果的に無死1塁のピンチを背負ってしまった。
しかも打順は1番に戻った。
6回、7回から毎回のようにランナーを出す展開に、さらにタイタンズファンの声援は大きくなる。
神田は1番打者に送りバントを許し、状況は1死2塁。
スコアリング・ポジションにランナーが進んでいる。
神田は2番打者との対戦に頭を巡らせた。
(2番の寺谷とは相性はいい、それに長打力もさほどない。パワー勝負に持ち込めば……)
だが次の瞬間、神田の作戦は白紙に戻されることになる。
《2番、寺谷に代わりまして、ターナー。バッターは、ターナー。背番号44。》
今度は今シーズンから加入した東北ロイヤルズの元4番、右打者ターナーの代打が告げられたのだ。
しかも、ネクストバッターズサークルには寺谷をおいた上で、ターナーを裏で準備させておくという徹底ぶりだ。
再び大きく湧き上がるタイタンズファン。
タイタンズが試合を決めに来ていることは明白だった。
(今度はターナーかよ! オールスターに選ばれた覚えはねえぞまったく……。)
思わず神田は内心で悪態をつきながら、一度ホームベースに背を向けてマウンドをならす。
(こんなすげえ打線に支えられて投げてたのか俺は。そりゃ勝てるわけだ。)
タイタンズ時代の自分の成績に思いを馳せる。
(だけど、このチームで投げる方が、自分らしく投げられるんだよな。)
大きく息をして肩の力を抜いて、天を仰ぐ。
見慣れた後楽園ドームの天井。
だが、視線をグラウンドに戻すと、その先には真っ青なユニフォームを着たドルフィンズナインの姿。
代わりがいない、自分だけの居場所。
いつお払い箱にされるか分からないプレッシャーから解放されたこのマウンドは、神田にとって心地の良いものになっていた。
「じゃあ、もいっちょ勝負してみますか!」
2塁ランナーに目をやってセットポジションに入ると、神田は再び谷口のサインを覗き込んだ。
(インハイに、ストライクになる真っ直ぐ)
いきなり力勝負を求めてきた。
スリークォーターにフォームを変えてから、神田の球威は落ちている。
それでもこのボールを要求した谷口の頭には、今日の神田の調子がいいことが含まれているのかもしれない。
神田はセットポジションから大きなためを作ると、力勝負とばかりに渾身のストレートを投じる。
いきなりの真っ向勝負に面食らったのか、ターナーのバットは出足が少し遅れた。
バットはボールの下を叩くと、ふらふらと舞い上がって一塁スタンドに力なく落ちる。
ファウルボールでカウントは0−1だ。
これでまずはストライク先行の状況を作った。
ターナーは落ちるボールに弱い。
最後はフォークで決めるためにも、次のストライクをどこでどのように取るかが焦点となることは、誰の目からも明らかだった。
その2ストライクを巡る攻防が、両者の手探りで繰り広げられる。
2球目、アウトコースにスライダー。ボール。カウント1−1。
3球目、インコースにツーシーム。ボール。カウント2−1。
できることなら、アウトカウントを2つにして3番・上尾を迎えたい。
それはドルフィンズベンチだけでなく、バッテリーにとっても切実な願いだった。
上尾の勝負強さは球界随一、しかも王手をかけたこの場面での勝負強さとなれば計り知れない。
そのためには、次の投球でストライクカウントを2つにすることは、バッテリーにとって至上命題だった。
(アウトローに、ストライクになるストレート)
サインを見て、神田は深く頷いた。
神田の頭にあったボールと同じだったからだ。
最後はインコースの落ちる球で打ち取りたい。
そのためには、一度外角のボールをみせながらストライクカウントを稼ぎたい。
神田はセットポジションから、谷口の要求するとおりのコースにストレートを投じる。
スリークォーターにフォームを変えてから、コントロールも向上していた。
「よしっ!」
狙い通りのコースに走るボールを見て、早くも声を上げる神田。
打撃フォームを泳がせながら、ターナーは苦しげにボールに向けてボールに手を伸ばす。
このままバットの先にボールが当たり、ゴロで打ちとれるだろう。
そう神田が確信した瞬間だった。
「マジかよ?!」
バットを左手一本で持つと、ターナーは無理矢理流し打ちの体勢に切り替えて、芯でボールを捉えた。
ボールは速い弾道で地を這うように1・2塁間を襲う。
ランナーが2塁にいたため、2塁キャンバスよりにいたセカンドの内田が必死に飛びつくが、打球はそれを嘲笑うかのようにグラブをかすめてライト前に転がっていった。
幸い、打球が速かったため2塁ランナーは3塁で止まったが、1死1・3塁で上尾を迎えた。
最悪の形を作ってしまった。
「くっそ!」
思わず神田はマウンドの土を蹴り上げていた。
度重なる連投で、神田の球威は日に日に衰えていっていた。
だが、この球で勝負するしかなかった。
誰も責められるものではなかった。
だが、神田はせっかく見つけた居場所を守れなかった悔しさと、自分を信じてくれたチームメイトのふがいなさを、何かにぶつけずにはいられなかったのだ。
◆◇◆◇◆
「はい、ブルペン!」
河本コーチが再びけたたましく鳴った内線電話を取るのと同時に、戸高のミットが心地よい音を立てた。
楓の方を見ると、すでにマウンドからゆっくりと降りて、額の汗をタオルで拭っていた。
「わかってます。」
落ち着いた口調で、河本コーチから話しかけられる前に言う。
「立花、お前……。」
その落ち着いた口調の不自然さを知っていたかのように、戸高が心配そうに声をかける。
「大丈夫だよ。なんとかなる。」
「だけど……」
まだ何か言いたげな戸高に対して、楓はシンカーの握りを戸高の方に差し出す。
「大丈夫、私にはこのボールと……戸高くんのリードがついてる。」
《ドルフィンズ、選手の交代をお知らせいたします。キャッチャーの谷口に代わりまして、戸高。背番号27。ピッチャーの神田に代わりまして、ピッチャー、立花。背番号98。以上に代わります。》
「ほら、もう時間がない。いくよ!」
ブルペンまで響く場内アナウンスを耳にして、楓は戸高の背中をグラブでぽんと叩いた。
「お、おう……。」
珍しく歯切れの悪い戸高を先導するように、楓はベンチの方へ小走りで向かう。
◆試合経過(東京−湘南・CSファイナル4回戦)
湘南 120 020 00=5
東京 110 030 0 =5
叶(5回)、伊藤(1回)、バワード(1回)、神田(2/3回)、立花(0回)−谷口、戸高
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます