第70話 私怨と支援

 CSファイナルステージ第4戦。

 両チームがこの試合を制すれば日本シリーズに王手という波乱の展開となり、プロ野球ファンたちは大いに盛り上がった。


 球界の盟主・タイタンズに挑む、史上最弱球団・ドルフィンズ。

 その快進撃に集まるファンたちの期待とは裏腹に、選手一同は夢うつつの心持ちだった。


「あと2つか……。」


 試合前のミーティングを控えたロッカールームで、今日もセカンドを守ることになるだろう内田がぼそりとつぶやく。


「ここからが本当の勝負ですね。」


 それに対して最初に言葉を返したのは希だった。


「なんというか、どうも腑に落ちないんだよなあ。」


「わかります、その感覚。どこかでまだ『勝たせてもらってる』って言う感覚が抜けないって言うか。」


 周囲から見れば、突然強くなったドルフィンズが、常勝球団タイタンズを脅かす快進撃をみせているようにも見える。

 だが当の選手たちは、誰よりもタイタンズの怖さを知っていた。


 昨シーズン1勝もさせてもらえなかった後楽園ドームでの悪夢はまだ新しい。

 どこかで、「まだタイタンズは本当の力を出していないのではないか」という恐怖感があった。


「まあでも、できることを全力でやるしかないよね!」


 こういうとき、楓は努めて明るく振る舞うことにしていた。


 本当は自分も不安で仕方ない。

 いつ大事な場面で自分が試合を壊してしまうのかと思うのと、ブルペンで投げる手が震え出すこともある。


 だが、これまでチームには支えてもらってきた。

 打たれても打たれても、居場所を与えてもらった。


 だから、自分が弱気になるわけにはいかない。

 そう思っていた。


「立花の言うとおりだ。今日の試合、絶対に負けられない。」


 決意したような強い口調で静かに言ったのは、今日の予告先発・叶隆一かない りゅういちだ。


 叶は速球を中心に、カットとフォークで投球を組み立てる右のサイドスロー投手。

 ドラフト1位で同期入団した太田が1年目から開幕一軍を勝ち取ったのに対し、プロ9年目の昨シーズンにようやく一軍定着を果たした苦労人だ。

 今シーズンは先発ローテーションの谷間を埋める投手として1年間定着することができた。


「あいつにだけは、絶対に負けられないんだ……!」


 叶はFAで移籍した太田に対して、並々ならぬ闘志を燃やしていた。


 叶は太田と高校時代から何度も対戦し、高校3年生の夏も、太田のホームランで夏が終わった。

 その太田と高卒の同期としてドルフィンズに入団したことは喜ばしかったが、華やかな1軍生活を送る太田に対し、毎年2軍生活の叶。


 そしてようやく1軍に定着したと思えば、FAで敵となってしまった太田。

 本当は一緒に日本一を目指したかったという気持ちの裏返しとして、「強くなったドルフィンズを見せて、FA移籍を後悔させてやりたい」という思いがあった。


 王手をかけて臨んだこの試合、ドルフィンズは2番に高橋を据えた超攻撃的オーダーでタイタンズに挑む。

 対するタイタンズも、クリーンナップ以外は左打者をずらりと並べてオーダーで得点力を重視していた。相手投手に合わせた打線を組んでも十分強力になるのが、タイタンズの地力の強さだ。


◆ドルフィンズスターティングメンバー

1番 センター  金村虎之介

2番 レフト   高橋紘一

3番 ショート  新川佐

4番 サード   田村翔一

5番 ファースト フェルナンデス

6番 ライト   ボルトン

7番 キャッチャー谷口繁

8番 ピッチャー 叶隆一

9番 セカンド  内田俊介


 試合は両チームの思惑通り、相手投手を序盤から責め立てる乱打戦になった。


 ドルフィンズは初回に新川のソロホームラン、2回表に内田の2点タイムリーなどで3点をあげる。


◆試合経過(東京−湘南・CSファイナル4回戦)

湘南 120 0=3

東京 110 0=2 


 味方の援護を受けた叶は初回から失点しながらも、なんとか踏ん張る粘りのピッチングを見せた。

「絶対に負けられない」という思いが功を奏したのか、失点しながらもリードは守り続ける展開が続く。


 そして、3対2の1点リードで迎えた5回表、ドルフィンズの4番田村が待望の追加点を呼び込む2ランホームランを放つ。


 「リードしていたら5回まで」とあらかじめ告げられていた叶は、残りの力をすべて使って5回裏を抑えるべくマウンドに上がった。


◆試合経過(東京−湘南・CSファイナル4回戦)

湘南 120 02=5

東京 110 0 =2 


 この回のタイタンズの攻撃は1番からの好打順だった。


 叶は先頭打者をセンター前ヒットで出してしまうが、2番打者を外野フライに打ち取ると、3番・上尾を四球で歩かせ、1死1・2塁で4番・太田を迎える。

 ここで勝負強い上尾を歩かせるのは想定の範囲内だ。


「叶、ランナー2塁にいるけど、インコースガンガン攻めていくぞ。」


 間を取るためにマウンドへいった谷口が叶に言う。

 叶は、


「はい。」


とだけ返事をしたが、その気合いは十分だった。


(同級生のコイツだけには、絶対に負けられねえ……!)


 叶の胸には闘志が燃えたぎっていた。


 太田がゆったりと貫禄たっぷりに打席に入り、バットを構える。

 叶はその威圧感に一瞬たじろいだが、すぐに思い直した。


(コイツはいつだってそうだ。こうやって投げる前から、勝負を決めようとしてきやがる。)


 叶の脳裏には、高校3年生の夏の光景がよみがえる。


 最後の夏、やっとつかんだ笠井寺球場での全国大会の切符。

 その叶の夏を初戦で終わらせたのは、プロ注目の3年生・太田が放った2打席連続のホームランだった。

 叶の速いが軽いストレートを、太田が見事に捉えたのだ。


(お前はFAする前の俺しか知らねえ。俺がお前を知らないように、お前も俺を知らないんだ。)


 叶と太田は、同期入団の高卒ということもあり、十分な交流があった。

 自主トレも何度か一緒にやってきた。


 だが、いつしか一軍に定着した太田に気を遣って、叶は自分から声をかけなくなっていった。

 それに呼応するように、太田もいつしか叶を気にとめる様子を見せなくなり、一軍の先輩選手たちと仲良く振る舞うようになっていった。


 叶は、同期入団の太田がFA移籍を何の相談もなく決めたことが複雑だった。

 それを知ったのは、テレビのスポーツニュースからだ。


(そうやって、全部分かったような顔して、俺に何も言わねーでタイタンズに移籍して……)


 過去への思いを込めてボールを強く握り直し、サインを覗き込む。


(インローへ、ストライクを取る真っ直ぐ)


 叶はセットポジションを取って大きく息を吐くと、渾身のストレートを投げた。

 太田の体は微動だにせず、これを見送って、主審の右手が挙がった。


 カウントは0−1。


(お前が見ない間に、俺だって別人になるんだよ!)


 キッとした鋭い目つきのまま乱暴にボールを受け取ると、叶はすぐに次のサインを見た。


 そして、太田が知る叶とは別人のようなボールを投げ続け、たちまち太田を追い込んだ。

 カウントは2−2。


 次の球で決めにかかることは、誰の目から見ても明らかだった。


(アウトハイに、ストライクになる真っ直ぐ)


 谷口は満を持してこのボールを要求した。


 叶のストレートは、高めに入るとノビがさらに良くなる。

 初速と終速の差がほとんどないため、手元でホップするように見えるのだ。


 アウトハイのストレートで、先発ローテに入ってから何度も空振り三振の山を築いてきた。

(谷口さん、分かってますね……この球で抑えなきゃ意味ないんですよ。)


 叶にとってもこれは特別なボールだった。


 高3の夏を終わらせたのも、アウトハイのストレートだったからだ。


 叶はランナーにも構わず、セットポジションから大きく足を上げてボールを投じた。

 ランナーは動かない。


 指先までしっかりと力が伝えられたストレートは、金属音のような高い回転音を立ててミットへ一直線に向かう。


 151km/hを記録したボールは、そのスピードをほとんど変えることもなく、すぐにホームベースに到達する。

 そして、太田が打撃の動作に移るのに合わせるかのように、手元で大きくホップした。


 しかし——


 次の瞬間、ボールの行方を見ることもなく、何かを叫びながらマウンドにグラブを叩きつける叶の姿がそこにはあった。


 太田の打球は、叶の速球を思わせる速さで右中間スタンドに突き刺さった。


 叶は打球が上がる角度と速さを見ただけで、ホームランを打たれたことを確信した。

 それだけ完璧な打球だったのだ。


 この日初めて、ドルフィンズは同点に追いつかれた。


◆試合結果(東京−湘南・CSファイナル4回戦)

湘南 120 02=5

東京 110 03=5


 叶のボールは十分な速度もあったし、キレも増していた。


 1年間一軍ローテを守るだけのことはあった。


 だが、それ以上に太田が一枚上手だった。

 太田自身も、あの夏から大きく成長を遂げていたことは間違いなかった。


「結局また……追いつけないのかよ……!」


 叶はマウンドで思わず声にする。


 18歳の夏から10年間、必死に努力してきた。

 太田と一緒に一軍で活躍したい一心だった。

 太田と日本一の喜びを分かち合うことが目標だった。


 だが、その日を目前に、「日本一になれる環境」を求めて太田はタイタンズへ移籍してしまった。


 一緒にプレーすることもできない。

 移籍した太田を後悔させることもできない。


 悔しさがこみ上げてきて、また大声を上げたくなる。


「まだ終わってねえぞ、叶。」


 後ろからかかった声に、叶ははっとなった。


 声の主は、ショートを守るキャプテンの新川だった。

 さっきの独り言を聞かれていたかもしれないと思い、叶は途端に自分のしたことが恥ずかしくなった。


「すいません。」


 とだけ言葉を返す。

 だが、新川はそれですべて察したかのように、手短に用件を告げた。


「俺らは70人全員でドルフィンズだ。俺らが日本一になればいいんだ。」


 そう言って右手の拳を突き出してきた。


「すいません、頼みます。」


 叶は再び謝って、拳を突き合わせる。

 主審が試合再開を急かしに来たのを見て、新川はすぐに守備位置に戻っていった。


 新川の「俺らが打ってやるから、絶対に諦めるな」というメッセージは十分に伝わっていた。


 なんとか正気を取り戻した叶は、このあとの打者を打ち取り、同点にとどめてマウンドを降りた。

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